分裂までに何があったのか

今回一部の直参組長が離脱脱退するまでに何があったのだろうか。

マスコミが色々と書き立てているが、なかなか誰も的を得た原因を指し示すのは困難に思える。原因は複雑に絡み合いそう単純ではない。六代目体制が発足して以降常にその予兆はあったし、爆発寸前の状況でよくここまで持ち堪えてきたものだ。特に2008年の大量処分時には不穏な空気感があった。この時何も起こらず「音ナシ」で収束したのには後藤組々長・後藤忠政の大人の所作が最終的にあったからだと思う。当時後藤忠政の処遇について本家で問題が持ち上がってから、後藤氏が処分を受け入れる覚悟を決めるまでに相当な葛藤があっただろう事は、その後出版された「憚りながら」の行間に読み取る事が出来る。つまり後藤問題を穏便に収めたのは執行部ではなく、後藤氏本人によるところが大きいと思う。そして最後に名古屋に出向き、高山若頭を立てるところなど、さすが大親分と呼ばれた後藤氏の潔さと器の大きさを感じる。

後藤氏の除籍直後に起こった同年から翌年にかけての直参大量処分も、この時の後藤組問題と決して無関係ではない。
騒動を乗り切ったその後の山口組には何が残ったのだろう。我が強く注目されがちな個性を持つ直参は、この頃おおかた山口組から追放した。組を出されなくても執行部から外されるなど窓際へと追いやった。

当然巨大組織を預かる執行部ともなれば、それなりの統制を取っていかなければたちまち組織は立ち行かなくなる。そうそう甘い顔も出来ないだろう。しかし本家では正論や筋論よりも、執行部の論理すなわち高山若頭の論理が押し通されてきた。

ただこの十年、そういう本家の高山若頭や執行部あるいは弘道会に対して、大阪では末端の組員でさえ公然とそのやり方を批判していた。2008年の後藤組問題と直参に対する大量処分にしても、やり過ぎの横暴だと言う受け止め方がほとんどで、本家の高山若頭に対しては、情のない冷酷な人物というイメージを皆が持つようになった。また執行部入りする人物にしても、高山若頭に従順な者らが順次引き上げられていったに過ぎないという見方をしている。反抗的な人物や執行部を批判する者には、常に粛清が行われてきて、追放されずとも冷遇され微妙な立場にある者や、それらの者が率いる二次団体の構成員にとって、不満がいつ爆発してもおかしくない空気が渦巻いてきた。こうした状況では宅見若頭暗殺事件のような事が、いつ起ってもおかしくないという意見もあった。

つまり、現体制に対して何か一波乱いつ起こっても何らおかしくないという見方だ。

大地震が起こると警告する学者がいる。
いつ起きてもおかしくない条件は揃っている。しかしいつ起きるかは分らない。明日かもしれないし来年か再来年かもしれない。ずっと起こらないかもしれない。しかしそのエネルギーは放出されず溜まっていく。反乱は大地震予測とよく似ている。小さな反発が度々起こるよりも、表面上静かな時間が長ければ長いほどそのエネルギーは大きいのかもしれない。