竹中武

ヤクザとしての生い立ち

昭和18年(1943年)8月6日
兵庫県飾磨郡に竹中家の八男として生まれる。竹中家では長男と次男以外、生まれてすぐに亡くなった七男を除くと、三男の正久以下の男兄弟、四男・英男、五男・正、六男・修、八男・武全員が後に極道となる。

竹中家三男の正久は、御着の実家を拠点に、英男、正、修、武、坪田英和(後の初代若頭)、徳平正春、中塚昭男、平尾光、笹井啓三、桂勇一、西尾健太郎らと愚連隊を形成していく。
四男の英男は、明石の博徒・矢嶋清(後の四代目山口組舎弟・矢嶋長次の父)に師事し、熱海市の鶴政会(会長は稲川角二)の賭場にも出向くなど英男は博徒として名前を売る。英男の人脈もあり正久らは、姫路市総社の旅館「大阪屋」で手本引きを開催し、英男に胴を引かせ、正や武らに合力(進行係)をさせるなどし、愚連隊でありながらも博徒としての活動もしていく。

昭和35年(1959年)
英男は結婚して、御着の実家の裏に木造二階建ての新居兼賭場を建てた。このころすでに、英男は結核に罹っていたが、野球賭博や金融業もやり始めていて、当時の竹中一派を英男は経済的にも支えた。

昭和36年(1961年)
武は、長兄の龍馬から金を借り、姫路駅裏の南地に3階建ての家を借りて、売春宿「25時」を開いた。英男が姫路の三代目山口組系湊組の手本引きで大負けした時には、武が英男の負け分を支払い窮地を救っている。

そしてこの年の暮れ、竹中正久が三代目山口組々長・田岡一雄の盃を受け、山口組入りを果たし、正式に竹中組を結成した。

山口組入り

昭和37年(1962年)1月
夜桜銀次事件が勃発した。

同年11月
「25時」で女性従業員の愛人(木下会若衆)を、武の若衆が下駄で殴ったことで、女性従業員が警察に訴えた。武は逮捕され鑑別所に送られ、保護観察処分となった。「25時」の営業が困難になったため、竹中組の事務所として使うことになる。

同年12月
正久の若衆・森田三郎がノミ行為をしくじり、岡山の者に借金を作った。武が借金問題を交渉するために、岡山市に出向いたが、この事が縁になり武は岡山市に定住した。その後、武は岡山市に岡山竹中組を設立した。

昭和39年(1964年)2月
母の愛子が膵臓癌で死亡した。享年60。愛子の葬儀には、田岡一雄の妻・田岡文子が参列した。

同年6月
長く結核を患っていた英男が死去。

昭和53年(1978年)
堅気の長兄・龍馬が死去。

姫路事件

1980年1月10日
岡山県津山市で二代目木下会系平岡組々員・片岡一良と池元幸男の二人が、竹中組津山支部の小椋義政と山口組系小西一家内小島組々員・水杉義治を射殺した(津山事件)。すぐに手打ちとなったが、その席上で木下会々長・高山雅裕が「殺害に関係した組員を絶縁にする」と表明したものの、仲裁者の湊が「絶縁まではしなくてもいいだろう」と発言し、竹中も高山も湊の提案を了承した。
しかし湊の発言について双方で解釈が違っていた。竹中組は絶縁から一つ手前の破門処分と捉え、木下会は処分自体をしなくても良いと捉えていた。そして一向に処分通知がない事で、竹中組では不満をつのらせていった。

同年5月13日
姫路市東駅前町の木下会事務所前で、竹中組の平尾光が指揮する襲撃グループ大西正一、高山一夫、山下道夫、山田一が木下会々長・高山雅裕を射殺。

同年7月
岡山県津山市で、竹中組内杉本組々員・内山誠治と福田徹が、木下会系島津組津山支部幹部・坂本貢を車で拉致しようとしたが逃げたため、拳銃で撃ち重傷を負わせた。
三代目木下会々長・大崎圭二は、武に襲撃理由を問い質した。武が調べてみると、坂本貢が木下会から破門され、木下会と無関係になったために襲撃したと判明。武も大崎に伝えた。坂本の破門は決まっていたが、破門状はまだ出ておらず微妙な時期だった。

その後、武は岡山で大崎と会い、津山事件の和解条件の解釈について誤解ががある事を互いに確認した。

昭和56年(1981年)3月6日
木下会と再度手打ち式を行った。見届け人は山口組若頭補佐・山本広(後の一和会会長)だった。

実兄正久が山口組四代目を襲名

同年7月23日
三代目山口組々長・田岡一雄が死去。

昭和57年(1982年)2月4日
三代目山口組若頭・山本健一が死去。

同年6月
山本広の組長代行体制で、竹中正久は若頭に就任。

昭和59年(1984年)7月10日
徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で竹中正久が、山口組四代目を襲名。

山一抗争

昭和60年(1985年)1月26日
一和会ヒットマンの襲撃により組長の竹中正久、若頭の中山勝正、直参若中の南力、三名が死亡。

正久の密葬直後に武は岡山県警に逮捕されこの後1年5ヵ月後に保釈されるまでシャバから隔離される事になる。つまり山口組として報復に動く一番大事な時期に竹中組組長はシャバにいなかった。

正久らが射殺されてから4日後、組長代行に中西一男、若頭に渡辺芳則が執行部により決定される。中西は代行であるが、渡辺は若頭代行ではなく正式な若頭である。
当時山健組の二代目を継いで間のない新世代ともいえる渡辺の若頭就任を強力に支持したのは直参としても渡辺よりもはるか先輩にあたる宅見勝とされている。この事で渡辺は、まだ直参としてのキャリアも浅い自分を推してくれた宅見をこの先もないがしろに出来なくなったはずである。
そして宅見は自分が立つ事よりも渡辺に恩を売り、名より実をとったとも言える。このねじれた逆転関係は五代目成立後も続いたのではないだろうか。武は非常に頭の良い人物である。これらの人事について敏感に察するものがあったに違いない。

武が拘留されている間にも一和会に対する山口組の報復は繰り広げられ、武が率いる竹中組も組長不在でありながらも当然先を越されぬよう報復へと動いた。

同年3月24日
甲子園球場の駐車場で、竹中組内塚川組の桃井省三らが、一和会特別相談役大川覚のテキヤの長男を銃撃し重傷を負わせた。

同年10月27日
鳥取県倉吉市のスナックで、竹中組内杉本組の手により、一和会幹事長補佐赤坂組組長赤坂進と組員を射殺した。山口組で一和会幹部殺害に成功したのはこれが初めてだった。

昭和61年(1986年)1月21日
兵庫県加西市で、竹中組内大西組組員二名が、一和会加茂田組内小野会・小野敏文会長の自宅に押し入り、射殺した。

同年2月
稲川会から山口組の執行部に一和会との和解を打診される。正久暗殺から約一年初めての抗争終結話である。組長代行の中西は、服役中だった豪友会の二代目会長岡崎文夫から執行部に一任するという了解をとりつけた。豪友会の先代中山勝正は正久と同時に一和会によって殺されている。中西は武にも面会し説得を試みたが、武は自分が出るまで話自体を待って欲しいと返答している。

しかしこの頃の山口組内には抗争終結のムードが漂い始めていた。

同年2月27日
姫路市深志野の竹中正久の墓の前で、竹中組内柴田会組員二名が射殺された。
これで一和会との終結話は流れる事になる。

同年5月21日
大阪市のミナミで、竹中組内二代目生島組、組員二名が、タクシーに乗って移動中の一和会副本部長中川宣治を射殺した。前年10月の倉吉での事件に続き一和会幹部二人目を殺害したのもやはり竹中組であった。

そしてこの事件を節目に再び抗争終結話が持ち上がる。

同年6月19日
武が1年5ヵ月ぶりに保釈された。

同年8月14日
傷害容疑で逮捕状が出ていた渡辺芳則が出頭し、逮捕された。武と入れ替わるように渡辺が年末まで四ヶ月拘留されることになる。

この頃にも武に対する説得は続いていた。主に組長代行の中西が当たっていた。武は中西に対して自分が山口組に迷惑をかけるようなら脱退しても構わないとも言っている。当然中西に慰留されている。

当時武は
「中西のオッサンとは何べんも話して口論もしたけど、ヤクザの先輩やしええ勉強もさせてもろた」と執行部への理解も示している。
少なくとも話し合いを重ね気持ちが通じる部分があったのかもしれない。
この頃の定例会では終了後、靴を履いて帰ろうとしている中西に
「オッサンもう帰るんかいや。中華頼んでるから一緒に食うて帰れや」と武が声をかける事もあった。口は相当に悪いが、中西に親しみを感じていたはずだし中西もそれを許していたようである。

また倉本組組長・倉本広文が中西をないがしろにする発言をした時には武が猛然と食ってかかりあわやつかみ合いとなる事もあった。

昭和62年(1987年)2月
執行部は武に、山一抗争終結への意向をあらためて質した。武は「直参全員に終結に反対か賛成かの採決しよう」と逆提案したが執行部は採決しなかった。

同年2月8日
緊急の直系組長会が開かれ、中西一男は山一抗争終結の決定を宣言した。武ら反対派を押し切る形だったが、武はその場では押し黙っていた。
武が終結に反対している事は公然の事実であったし、ましてや手打ち式もない。単にいったん終了しましょう。というニュアンスにとらえる者もいた。現に「一週間後にいきがかり一和の者とケンカしたら処分はあるのか」という質問も出た。武にしてもこのようにケジメのはっきりしない終結など、意味は重くないと考えていたのではないだろうか。ヤクザのケンカなどどうとでも仕掛けられる。しかしこのあたりから組内はおかしくなってきている。

すでに渡辺派は五代目体制を見越して、宅見を中心に政治的に動いている。
抗争の決着は通過点であり終着点ではない。

一方武は幹部の立場に理解を示しつつ終結の仕方、つまりどのような形で
終わらせるのかとケジメに対する考え方を執行部にも質している。

同年6月
大阪府枚方市で山健組系中野会の副会長が射殺された。しばらく犯人は割れなかったが、5ヵ月後山広組の犯行と割れた。それ見たことかである。ここから抗争が再燃した。

昭和63年(1988年)1月
山健組は二代目山広組事務局長を射殺し一応の格好をつけた。

2月には放免祝いから帰る山広を竹中組若頭補佐の増田が狙うも
直前に警察の手に落ち未遂に終わっている。

かつて山口組三代目田岡一雄は側近にヤクザの歴史上、親の仇討ちに成功した者はいないと言ったそうだが、殺られまいとする者を殺るのはそれほどまでに難しいという事だろう。

また、ヤクザの抗争時、組事務所めがけて発砲しガラスを割るのは腰が引けたみっともない行為だと言う者もいるが、武に言わせると「その子も組のために自分も何かせんなならん思うて、その子の精一杯やった事を親が汲んでやらんでどうするんや」と愛情ある事を言っている。

また武は竹中組の末端の枝組織の部屋住みの若い者でも同じテーブルに座らせ一緒に飯を食う。親分のお供に付いて来た他団体の若い者でも食事時には側に呼び寄せ同じ卓に着く。このような武の所作に駆け出しのチンピラは感動し心酔する。
少なくとも武は組幹部以外は側に置かないというような敷居の高い組長ではなかった。粗暴なイメージではあったが、頭も良く物事を公平に見ることも出来き、末端の者であっても声をかける細やかさもあった。

ある時渡辺を批判し五代目就任はありえないと話す古参に対し「オッサンそんな事言わんと、渡辺がやるべき事をやるかも分らんやないか。そん時はワシが渡辺で頼むと頼みにくるかも知れんのやから」と発言している。時には「兄貴の若い者やなくて枝の子が殺るかも知れん。そしたらその子が跡目とる事に反対はせえへん」とまで言っている。
またある時には、四代目を殺害した実行犯について、「堅気になって刑務所から出てきたら見逃してやれ」と自分の若い者に言っていた。雑誌のインタビューで実行犯に対しても「ワシから来いとは言わんけども線香あげたい言うんなら断る事あらへん」武闘派と言われていても決して狂気の人ではなく、冷静で公平に物を見る事が出来るバランス感覚に優れた人物である。

こういう武が打算で立ち回る渡辺擁立派と相容れるはずもなかった。誰を担げば自分が得かなど考えるはずもなかった。あるのはヤクザとしての理念だけだったのだろう。目の前の抗争に全霊を注ぎ一和会を倒す事のみに燃えていた。

当時の定例会には直系組長それぞれに若い者が付いて行くが、二階で会合が始まると若い者は皆一階で待機している。終始聞こえてくるのは大声で話す武の声である。武の声が聞こえなくなると会合が終わるのである。

同年5月14日
神戸市東灘区御影で竹中組安東会会長・安東美樹らが山本広邸攻撃し、
警察官3人を銃撃し負傷させ、山本邸めがけ、てき弾を爆発させる。

これが山口組内でも評価する者と批判する者に分れた。面と向かって批判せずとも、渡辺もこの事件を批判し武の耳にも届いていた。渡辺と武の対立は深まった。

この頃すで五代目には中西かそれとも渡辺かと、当人らの意識にもありこの二人もまた対立していた。
かといって武が中西を推しているという訳ではない。政治的な根回しでは渡辺派が先行していた。すでに宅見も岡山に武を訪ね、武自身の五代目への意欲に探りを入れている。探られた武も宅見の意図を見透かしていた。宅見もまた武の気性を十分に理解し、武の支持取付けを諦めて武抜きで五代目擁立を考えていた。

抗争終結と脱退

昭和64年(平成元年1989年)
近松と岸本の取り持ちで渡辺と武が会食する事になる。
ただ武は近松に五代目の件はアカンぞと、釘をさす事を忘れなかった。

武の考えはこの先渡辺であれ中西であれ功績を立て、良い形で抗争を締めくくった者が五代目に座ればいい。ただその者の盃を飲むか飲まないかは別の話と考えていた。

武はこの会食後若頭補佐に就任した。

ところで渡辺はこの間も終結工作に動いていた。会津小鉄や稲川会を通し山広の引退と一和会解散もほぼ決まっていた。武にとってはおかしな話であった。
実は前年12月に渡辺は武と会い、「中西が仲介者を入れ山広の引退工作を進めているので止めてもらいたい」と渡辺からの依頼があった。武は中西の説得を引き受けてもいる。ところがフタを開ければ渡辺が進めていたというのだ。

引退と解散・・・
詫び入れはどうなってるんだと言うのが武の言い分である。渡辺にしても稲川会と武の板ばさみのような状態だった。しかし大事な話であれば持ち帰って、執行部に諮るべきだというのが武の言い分である。武は筋の通った話であれば時の若頭でさえ遠慮するところがない。その場で渡辺に稲川会に電話させている。

武はどんな時であっても抗争の継続を主張していた。五代目の前にやる事があるやろがいと常に言って来た。過去の終結話にも全員一致の賛成でなく、反対意見もあったと付け加える事にこだわった。

この時すでに山口組を出る意思は固まっていただろう。渡辺を担ぎ出す連中の目的も十分見抜いていたに違いない。山口組としての抗争は終わればいい。五代目体制には加わらない。渡辺の盃は飲めない。
武が望めばどんなポストでも五代目体制内に用意されただろう。それでも武は山口組を出た。

自分が思うヤクザ原理主義が昭和から平成へと変化する中で、ヤクザも変化を求められ世間に歩調を合わせなければならない時代。変化を受け入れられない者は、いつの間にか異端となり変化に失望する。
ヤクザの成功が人数や金銭なら、その後の渡辺の山口組は成功し、武の竹中組は敗北したといえる。しかし武が山口組に残ったところで、武が求める物は何もなかっただろう。

武の考え方はシンプルだったと思う。

終結は引退と解散、誰にでも分る形での詫び入れ。五代目は認めよう。その者の盃を飲むかどうかは自分が決める事。渡辺の盃は飲む事が出来なかった。

竹中組が山口組を出た事で、山口組から攻撃を受け死者まで出した。経済的に破綻する者もいた。出来る事なら、盃なしでも山口組に残って欲しかったと思う。竹中組の若い者には竹中組のため、山口組のため長い懲役に行っている者もいる。その者達のためにも竹中組は山口組に残るべきだったと思う。
武の考えもヤクザとして決して間違ってはいないだけに、他に選択肢はなかったのかと、その後の竹中組の若い者の事を思うと悲しい結果と感じる。

山一抗争 昭和59年(1984年)~平成元年(1989年)

山一抗争(時系列)

竹中正久