元山口組顧問弁護士として有名な山之内幸夫が、大阪戦争に連座して逮捕された宅見勝が留置場で長期刑へと覚悟を決めた所から生還した当時のことを明かしている。
1978年9月24日
和歌山県和歌山市で山口組系宅見組の大丸均、松本正夫が松田組系福田組内杉田組・杉田寛一組長を射殺した。
実行犯はしばらく判明していなかったが、1982年になって実行犯の一人が逮捕された。その実行犯の供述から見届け役のIに逮捕状が出た。察知した宅見組ではIを逃亡させたが、84年になってIが逮捕されることになる。そしてこのIの口から宅見の名前が出る。
逮捕のとき制圧の名目でIは肩を骨折し前歯4本がグラグラになり、警察の暴力的取調べの恐怖にさらされていた。
Iの弁護人として接見した山之内によると、
「先生、ワシもうあきまへん。親分が指示した言えいうて聞きまへん。組のモンに言うてワシ殺してえな。明日また病院行くから、その車つけてきてワシが降りたところを撃ち殺してもろて下さい。ワシはもう終わった身やから。かめへんからそう言うといてください」
山之内の見立てでは、Iの口から宅見の名前が出るのは時間の問題で、そうなれば次に宅見への逮捕状が出る。そして実際そうなった。山之内はいったん宅見を逃がすことにした。二人同時に拘留されると供述を合わせるのは困難になる。今はI一人にしておいてしばらく取調べの展開をみて、その後出頭させればよい。それまで時間を稼ぐのだ。ところが5月4日になって宅見は逃亡先の東京で逮捕された。警察はIの供述は押さえていながらも、まずは別件の傷害事件で宅見を逮捕した。しかし最初から警察の本命は和歌山の殺人事件だ。逮捕二日目の夜、山之内が接見した。
「先生、認めましたわ」
「えっ!何を」
「和歌山の件」
「えー、殺人ですよ。20年行きますよ」
「いや、ワシ山本健一のためなら死んでもええんです。あの人が松田組はいわさなあかん言うたら、ワシが走るのは当たり前です。この事件否認なんか出来ません。あの殺しはワシの願いをかなえてくれた立派な仕事です。逃げる気はありません」
山之内は血の気が引く思いがした。
「調書に署名したんですか」
「いえ、まだ調書は巻いてません。口で認めただけです」
調書になっていないのなら何もないのと同じだ。山之内は必死に説得した。山本健一に報いたいのなら、感傷に浸るよりもこれから擁立する竹中四代目を守って組を運営することだ。宅見ほど優秀な人材はシャバでこそ生かされる。長期服役で人生を終える訳にいかない。家族のこと、傘下組員の生活のこと、山之内は否認に転じるよう説得を続けた。
「今晩、よお考えてみます」
居ても立ってもいられず山之内は岸本才三に電話した。
「そんなこと言うとんかいな。山口組の仕事はこれからやがな。先生何が何でも翻意さして下さい」
山之内は翌朝朝一番に面会した。
「岸本さんに言いましたよ。気持ちは変わりましたか」
「ありがとうございます。もう大丈夫です。認めまへん」
こうして宅見は覚悟を決めた長期刑を寸前で回避した。事件は別件の傷害事件の起訴だけで終わり、5月28日保釈出所した。その一週間後、竹中正久の四代目就任が発表された。山之内の説得と宅見の翻意がなければ、宅見が出てくるのは20年先になっていただろう。そうなっていたら山口組の情勢も大きく変わっていたはずで、五代目体制の若頭はおろか、渡辺芳則が組長になっていたかどうかもあやしい。
大阪戦争では多くの人材が長期刑に服している。健心会会長の杉秀夫、盛力会会長の盛力健児、現在の神戸山口組組長の井上邦雄もそうである。彼ら以外にも山口組に名前も残せず人生を終えた者はもっといるだろう。井上に一点優位な点があるとすれば、それは年齢だろう。