札幌抗争

事件

平成元年(1989年)9月27日午前3時ごろ
札幌市白石区にある稲川会系越路家一家系の組事務所に銃弾が撃ち込まれた。

背景

事件の数時間前、9月26日深夜に札幌市すすきのの路上で、五代目山口組系誠友会の組員と二代目稲川会系越路家一家の組員との間で喧嘩があった。
この事が直接の原因だったが、誠友会は山口組へ加入して4年、会長の石間春夫がこの年の1月に宮城刑務所を出所したばかりで、2月には室蘭市で、飯島安達連合睦会と抗争するなど、北海道では室蘭市、函館市、苫小牧市、静内町(新ひだか町)、帯広市、稚内市などに勢力を伸ばし勢いに乗っていた。
当然旧来の地元組織とは、日頃から諍いも絶えない状態だった。

経過

平成元年(1989年)9月27日
札幌市白石区での銃撃から約1時間後、同市中央区の誠友会本部に銃弾が撃ち込まれた。

最初の札幌市白石区での銃撃から同日の午後までに、誠友会は越路家一家系の組事務所9ヶ所に銃弾を撃ち込んだ。

一方、越路家一家は、誠友会系の組事務所4ヶ所に銃弾を撃ち込んだ。

そして同日のうちに、山口組本部は北海道での誠友会と越路家一家との抗争事件について、石間春夫に即時抗争中止を通達した。

同日午後
五代目山口組若頭補佐の前田和男(黒誠会々長)が北海道入りし、石間春夫に執行部の意向として越路家一家との抗争を即時中止するよう伝えた。これで抗争は終結した。

事件後

この抗争で誠友会が攻撃した越路家一家の上部団体は、二代目稲川会である。
山口組はこの時の渡辺芳則組長が山口組五代目を襲名する際、稲川会の稲川聖城総裁が後見人となっており、取持人が稲川会・石井隆匡二代目会長、奔走人が稲川会・稲川裕紘理事長だった。
ようするに、五代目山口組の発足にあたり山口組は稲川会に、丸っきり世話になっている。これらの事情からも、一時の下部団体同士の争いは仕方ないにせよ、稲川会を相手に山口組挙げての抗争に発展させる事はできない。
以上の理由から、札幌事件は超短期間の内に終結となった。

この抗争後も、稲川会と山口組双方の傘下団体同士の突発的な事件は多発したが、山口組本部としてはこれらを早期終結させ、稲川会とは喧嘩せずを通している。