山竹抗争

事件

平成元年(1989年)7月3日
岡山市新京橋の竹中組の事務所が走行中の車から銃撃を受ける。

背景

平成元年(1989年)、長期間続いた山一抗争が終結し、新たに五代目山口組がスタートした。殺された四代目組長竹中正久の実弟竹中武(竹中組々長)は最後まで抗争終結に反対し、五代目組長渡辺芳則の盃を受ける事なく、山口組から脱退する事になる。武に同調する直参、矢嶋長次(二代目森川組々長)、森田唯友紀(森唯組々長)、牛尾洋二(二代目牛尾組々長)らも同じく山口組を離れている。
この中で矢嶋、森田は間もなくヤクザを引退したが、牛尾は武の舎弟として竹中組に合流している。

竹中武は山口組離脱後も独自に抗争継続に執心し、元一和会々長の山本広の命を狙い続けた。五代目山口組としては抗争終結に際して山本広の命を保証しており、間に入ってくれた稲川会や会津小鉄会に対しても、竹中組の問題を山口組として解決しなければならない立場にあった。

離脱し山口組とは関係がなくなったとは言え、勝手に抗争を継続されては山口組の面子に関わる問題であった。

また竹中組の下部組織では、組長の武の方針に戸惑う者も多く組織内は混乱した。武の直系の者達は、それぞれがまた組員を抱える組長でもある。先の山一抗争でも前面に立ち、自組織から服役者を出した者もいる。そういう自分達が、今になって山口組を離脱する事に、納得できないという気持ちもまた当然である。

舎弟頭補佐の杉本明政(杉本組々長)や若頭補佐の生島仁吉(生島組々長)、宮本郷弘(宮本組々長)が竹中組を離れ宅見組や三代目山健組に加入した。

また竹中組が山口組を脱退後、姫路競馬場や姫路の飲み屋街など、それまで竹中組が収入源としていた場では、山口組系に押される場面が多くなっていた。

経過

平成元年(1989年)6月4日
岸本才三(岸本組々長)、西脇和美(西脇組々長)、佐藤邦彦(佐藤組々長)が竹中武を訪ね、山口組四代目組長竹中正久の位牌と仏壇を神戸の山口組本家から竹中組へ運び込んだ。

同年6月25日
最高顧問の中西一男(中西組々長)、若頭補佐の倉本広文(倉本組々長)、前田和男(黒誠会々長)、舎弟頭補佐の石田章六(章友会々長)が竹中武を訪ね、武が管理している守り刀など山口組々長が継承する三種の神器について協議。
この時武は純金製三つ重ねの金杯を渡辺芳則に送っている。

同年7月4日
姫路市の病院の玄関で二代目牛尾組々員が、2人組の男から銃撃され負傷。

同年7月5日
守り刀相続の書類が整ったことから、竹中武の使者が守り刀を桑田兼吉(三代目山健組々長)に届けた。

同年7月20日
神戸市灘区の山口組本家で、渡辺芳則の山口組五代目襲名式を挙行。相続にあたっては祝儀の半分を先代組長の未亡人に贈るのが慣例だが、渡辺芳則は先代竹中正久の内妻中山きよみには届けなかった。

同年7月28日
竹中組総会を開き、副組長に青木恵一郎、若頭に大西康雄、総本部長に笹部静男、組織委員長に貝崎忠美が就任。同時に牛尾洋二が竹中組舎弟頭補佐に就任した。また杉本明政を除籍、生島二吉と宮本郷弘を破門とした。

杉本組と宮本組は宅見組へ、生島組は三代目山健組へ加入した。

同年8月3日
姫路市の竹中組事務所が銃撃され窓ガラスが割られる。

同年8月23日
竹中組々員が姫路で集まり、今後の協議をした。

同年同日
姫路市にある竹中組若頭の大西組(大西康雄組長)に銃弾が撃ち込まれた。

同年同日
姫路市にある竹中組本部長笹部組(笹部静男組長)に銃弾が撃ち込まれた。

同年8月24日
竹中組系二代目牛尾組(牛尾洋二組長)に銃弾が撃ち込まれた。

その後牛尾洋二は、ヤクザを引退。

同年8月25日
加古川市の竹中組系山本組々長山本浩司の自宅に銃弾が撃ち込まれた。

同年8月26日
山口組系三代目山健組疋田組々員が清掃車で、竹中組の相談役で竹中武の実兄竹中正が自宅隣で経営する不動産会社に突っ込んだ。

同年同日
山口組系三代目山健組村正会組員が、竹中組系林田組々長林田誠一の自宅に銃弾を撃ち込んだ。

同年8月27日
高松市の竹中組系二代目西岡組事務所に銃弾が撃ち込まれた。

同年8月28日
神戸市灘区中原通の竹中組系一志会事務所に銃弾が撃ち込まれ、玄関にいた組員が負傷。

笹部組、林田組、一志会が竹中組を脱退。笹部組は山口組系西脇組に加入。

同年8月31日
五代目山口組の若頭補佐三人、倉本広文(倉本組々長)、司忍(弘道会々長)、前田和男(黒誠会々長)が、竹中武を訪問し、竹中組の解散と竹中武の引退を迫った。竹中武はこれを拒絶したが、回答期限を9月4日とし三人は引き上げた。

同年同日
岡山県英田郡美作町で、竹中組系組員の自宅に銃弾が撃ち込まれた。

竹中組若頭大西康雄(大西組々長)が竹中組を脱退し、山口組系後藤組に加入。

同年9月4日
回答期限であり再度の訪問を受けるが、武は返答を変えなかった。

同年9月4日
岡山市田町の竹中組系貝崎組に2人組の男が、銃弾を撃ち込んだ。

同年同日
姫路市辻井にある竹中組相談役の竹中正の自宅に銃弾が撃ち込まれた。

同年9月6日
岡山市の竹中組系宮本興業に銃弾が撃ち込まれた。

同年9月7日
竹中組を離脱し山口組系西脇組に加入した笹部組々長笹部静男の自宅兼組事務所に、銃弾が撃ち込まれた。

同年同日
兵庫県揖保郡太子町にある竹中組幹部宅の近くにあった会社員宅に、銃弾が撃ち込まれた。自宅を誤認したものと見られる。

同年9月10日
姫路市福沢町で、兵庫県警が山口組系宅見組々員を拳銃所持の現行犯で逮捕。

同年9月21日
岡山市の竹中組事務所の玄関ドアに山口組宅見組々員が銃弾を撃ち込んだ。事務所前で警備をしていた警察官12人に取り押さえられた。

同年10月
引退した元一和会本部長の河内山憲法が入院する山口県柳井市の病院を竹中組々員3人が監視し始める。引退した元一和会々長山本広が見舞いに来るのを待ったが、結局退院まで山本広は現れなかった。

同年11月5日
山口組本家で竹中正久四代目組長の本葬が営まれる。その後内妻に香典として3000万円を届けるが、突き返されている。

平成2年(1990年)1月23日
竹中正の自宅前に火炎瓶が投げ込まれた。

同年1月24日
竹中組々員2人が、山口県柳井市の元一和会本部長河内山憲法宅に侵入し、山本広の所在を聞き出そうとしたが本人は不在だった。2人は河内山の妻をガムテープで縛り上げ、妻に拳銃を突きつけて河内山の所在を尋ねた。しかし妻は返答を拒否。竹中組々員2人は諦めて逃走した。河内山は警察に被害届を出さなかった。

しかしこの事件は噂として流れ、その後山口組でも把握する事になり、竹中組が具体的に山本広を狙い続けている事が明らかになる。

同年2月5日
姫路市北条に建設中だった竹中正の家が何者かに放火される。

同年2月18日
姫路市の竹中組相談役竹中正の自宅横の事務所の玄関に、男2人が銃弾を撃ち込んだ。

同年2月27日
竹中正の配下組員が犬の散歩中に、車に乗った3人組から銃撃され重傷を負う。

同年3月3日
ヤクザから引退した牛尾洋二が経営する不動産会社に男が侵入し、拳銃を発砲した。従業員2人が、重傷を負った。

同年3月4日
姫路市延末の中山きよみ(竹中正久の内妻)宅の門扉が壊され、玄関や表札に銃弾が撃ち込まれた。

同日夜
姫路の山口組神田組幹部が、中山きよみ宅を訪れ徹夜で警備した。

同年3月5日
岡山市十日市東町で、竹中組の熊原健裕が車で自宅に戻ったところ、待ち伏せしていた男に車の窓越しに銃撃され死亡。

同年3月6日
岡山市並木町の竹中組々員が居住するビルで、飲食店を営む男性が自宅に帰る途中、銃撃され重傷を負った。竹中組々員と誤認されたものと見られる。

同年3月6日
岡山ブルーハイウェイの君津インター料金所で、岡山県警は竹中組の2台の車を職務質問し、車の中を捜索した。拳銃3丁と実弾44発が発見され、拳銃不法所持の現行犯で竹中組々員4人を逮捕した。

同年3月9日
岡山ブルーハイウェイの事件に連座し、竹中組々員4人に拳銃を運ぶよう指示していた竹中組の幹部を逮捕。この幹部は、拘置中に竹中組から脱退し引退した。

同年3月12日
岡山市大供1丁目で竹中組の車2台が、山口組襲撃班の車3台に遭遇。竹中組の2台は逃走し別の道に分散したが、山口組襲撃班の車3台は、竹中組幹部の車を追跡。山口組の襲撃班は、竹中組幹部の車を2度銃撃したが、竹中組幹部は派出所に逃げ込んだ。

同年3月12日
鳥取県倉吉市のJR倉吉駅前の路上で、竹中組幹部の八栗拓一が女性と道路を歩行中、銃撃され死亡した。女性も右腕に銃弾を受け重傷を負った。

同年3月13日
岡山県警は、1月に竹中組々員2人が柳井市の元一和会本部長宅を襲撃したことを調べ上げ、山口県警に通報した。

同年3月14日
岡山市京町のマンションに帰宅した女性が、自宅に銃弾が撃ち込まれているのを発見して警察に通報した。この部屋には、同年1月まで竹中組幹部が住んでいた。

同年3月14日
山口県警は、柳井市の元一和会本部長宅の家宅捜索を行い、拳銃2丁と実弾23発を押収した。

同年3月21日
山口組系大石組(大石誉夫組長)組員が、大型ショベルに乗り岡山市新京橋の竹中組に向かって突入してきた。大型ショベルは手前に駐車中のワゴン車に衝突して動けなくなり、大石組々員は警戒中の警察官にその場で逮捕された。

同年4月8日
先月に続き別の大石組々員が、タイヤショベルに乗り、竹中組事務所に突入してきた。警察官がパトカー車両で防御したがタイヤショベルを止められず、3人の警察官がタイヤに向けて銃弾11発を発射するも、タイヤショベルは竹中組事務所の門に突入し、車を潰した。20人の竹中組々員が事務所から飛び出しタイヤショベルを取り囲んで投石し、竹中組々員1人が包丁を持ってタイヤショベルによじ登ったため、警察官に逮捕された。タイヤショベルは衝突を繰り返した後エンストを起こしたため、大石組々員はその場で岡山県警に逮捕された。

同年5月8日
元一和会本部長宅を襲撃した残りの1人が逮捕された。

同年6月18日
岡山県警は竹中組の組事務所や組員宅など16ヶ所を家宅捜索した。

同年同日
岡山県警は元一和会本部長宅襲撃の指揮を執ったとして、竹中武を逮捕した。

事件後

山竹抗争とは言え竹中組からは反撃はなく、山一抗争終結を不服として脱退した竹中組を、五代目山口組が一方的に連続攻撃した事件であった。

竹中武の逮捕を期に山口組からの竹中組攻撃も沈静化する。しかし山口組は脱退後の竹中組を認めておらず、和解も手打ちもなかった。竹中組は弱体化してもその後も存続し続けた。竹中武が執念を燃やし、命を狙い続けた山本広は、平成5年(1993年)8月27日に神戸の病院で死去した。

その後何度か山口組への復帰を噂されたが、竹中組は岡山で独立組織を貫いた。
六代目山口組発足時には若頭の高山(二代目弘道会々長)が岡山の竹中武を訪ねて、竹中組の名跡を山口組に復活させる事を打診したが、高山の出す条件を武が拒否したため叶わなかった。若頭の高山は自身の交渉を蹴られた事に気を悪くしたのか、その後山口組では改めて竹中組との交際は禁止された。しかし実際には武を慕う者は多く、山口組本部には隠れて交流を持ったという。

竹中武は極道の中の極道と、高い評価を受けながらも山口組を出た事で、竹中組本体は組員を減らし弱体化した。そのため指定暴力団に指定される事もなかった。

竹中武は平成20年(2008年)3月15日、肝臓ガンで死去した。

武の生前、六代目山口組での三代目竹中組が具体化したらしいが、武の引退を前提とされたため立ち消えとなった。

その後武は、竹中組の跡目は昭和63年(1988年)に山本広邸襲撃事件を起こした安東美樹にと望んだが、現実的には無理な事だった。安東自身は20年の判決を受け服役中で、事件後は山口組系一心会に籍を移していた。

武の死後は竹中正が竹中組を預かり存続させたが、正も平成26年5月に亡くなった。