出生
昭和11年6月22日兵庫県神戸市生まれ。
三重県伊勢市で幼少を過ごしたとするものや香川県大野村に疎開し少年期を過ごしたとする説。生い立ちについては諸説あるが、6歳のとき父親が他界し母親も14歳の時に他界したという。その後は叔母(母の姉)の世話になり大阪府立高津高校に進学したが、2年生のときに退学した。
20歳前後の頃は和歌山県に居住し那智勝浦漁港の周辺や和歌山市の飲食街でバーのマネージャーをしていた。この頃に同い年の女性と結婚している。
極道の世界へ
昭和34年(1959年)
結婚と前後して大阪へ居を移し、土井組系川北組・川北辰次郎組長から盃を受けてヤクザの道に入った。その後、山口組系組織と抗争になり組員の大半が逮捕され組は解散した。
昭和38年(1963年)
三代目山口組系福井組・福井英夫組長の盃を受け、山口組の系列となった。
昭和45年(1970年)
福井組の若頭に就任。
昭和53年(1978年)
山口組本家の若頭・山本健一(山健組組長)の推薦を受け、田岡一雄の若衆となり山口組直系に直った。
当時の宅見組は大阪のミナミを拠点にし、経済的地盤を確保しながら自身の向上心から来る行動力にもずば抜けており、自ら直参への昇格を望み、その器量や才覚を本家の若頭山本健一にも認められていた。
宅見はヤクザとして山本健一に心酔し積極的に親交を結び、直参昇格にあたっては山本の強い推薦があったとされる。
宅見勝と大阪戦争
昭和53年(1978年)7月11日
京都のベラミで三代目山口組田岡一雄組長が松田組系大日本正義団の鳴海清に狙撃される。
同年9月24日
宅見組の組員が和歌山で松田組系福田組内杉田組・杉田寛一組長を射殺。
同年9月27日
松田組・樫忠義組長に対する殺人予備、銃刀法違反で捜索を受ける。宅見組ではダイナマイトをラジコンのヘリコプターに積み込み樫宅を空爆しようと実験を行っていた。トランシーバーの他、拳銃5丁と組員4人が逮捕された。
昭和57年(1982年)
この年の年末、長らく不明だった和歌山での射殺事件の実行犯が逮捕された。
昭和58年(1983年)7月
宅見勝が山口組本家の若頭補佐に就任。
昭和59年(1984年)
和歌山での射殺事件を直接指揮したとして宅見組の舎弟頭が逮捕される。
同年5月
宅見勝が傷害罪で逮捕。宅見に対する真の嫌疑は、和歌山での射殺事件の指揮についてだった。
一連の宅見組の事件についての弁護人は、その後山口組の顧問弁護士として知られた山之内幸夫が担当した。山之内によると、宅見は逮捕当初、和歌山での事件を認めて、長期刑に服すつもりだったらしい。その事が宅見の「山本健一に対する気持ち」という献身だった。しかし山之内の説得により宅見は否認を押し通し、シャバに生還した。
当時の大阪府警のヤクザに対する取調べは常軌を逸しており、宅見の前に逮捕された舎弟頭は、逮捕の際に肩の骨と前歯4本を折られている。
そんな中で、宅見に指示されたと言えと迫る訳である。
四代目山口組
昭和59年(1984年)6月5日
山口組直系組長会で、竹中正久の山口組四代目組長就任が決定。
竹中正久の山口組四代目就任に反対する者らは山本広を支持し一和会を結成。
この時点で山口組は直系組長42人で組員総数4690人、一和会は直系組長34人で組員総数6021人と警察は見積もっている。
この時宅見勝は元の親分に当たる福井組・福井英夫組長を説得し、一和会への参加を取り止めさせ、ヤクザから引退させている。
この竹中正久の四代目就任に向けて、宅見は尽力し岸本才三らと協力した。
四代目山口組
組長・竹中正久
若頭・中山勝正(豪友会)
舎弟頭・中西一男(中西組)
筆頭若頭補佐兼本部長・岸本才三(岸本組)
若頭補佐・
木村茂夫(五代目角定一家)
桂木正夫(一心会)
嘉陽宗輝(嘉陽組)
宅見勝(宅見組)
渡辺芳則(二代目山健組)
舎弟頭補佐・
益田佳於(益田組)
大平一雄(大平組)
小西音松(小西一家)
伊豆健児(伊豆組組長)
山一抗争
昭和59年(1984年)8月5日
和歌山県串本町の賭場で、山口組系松山組内岸根組・岸根敏春組長が、一和会系坂井組串本支部若頭補佐の潮崎進を刺殺。個人的な金銭貸借が原因だったが、山口組と一和会の間で起こった初めての事件である。
昭和60年(1985年)1月26日
一和会の襲撃部隊が竹中正久ら三人を銃撃。ボディーガード南力は即死、若頭中山勝正も4時間後に死亡、竹中は大阪警察病院に搬送され死亡。
山口組では亡くなった若頭・中山勝正の後任に渡辺芳則が就任したが、これには宅見の強力な推薦があったとされる。当時渡辺は山本健一が率いた山健組の二代目を継いで間がなく、直参としてのキャリアも宅見の方が上であった。しかし宅見のキャリア自体も山本健一あってのものであり、その山本へ報いる気持ちからも、後を継いだ渡辺を推したと思われる。
同年3月6日
三重県四日市市の喫茶店で、宅見組内勝心連合会の2人が拳銃で一和会水谷一家の元相談役清水幹一を射殺。
五代目山口組若頭へ
平成元年(1989年)4月27日
山口組直系組長会で、渡辺芳則の五代目組長就任が決定。
渡辺が若頭に就任した時と同様、五代目に就任するのに尽力したのもまた宅見勝であった。宅見が心酔した山本健一の後継者という事も渡辺を推す理由であったかもしれないが、実際のところ、山本と渡辺は全く違うタイプの極道であり、別の理由もあったと考えられる。
渡辺が持つ経済性や数の論理など、ドライな面や近代的な発想は宅見と共通する価値観が多く見られる。また自分よりも年齢もキャリアも後輩の渡辺を担ぐ事で、組内の実権を握れると考えたかもしれない。
キャリアも年齢も若い渡辺の五代目就任には、多くの古参が異議を持っていたとされるが、それらを誠実に交渉して理解を得たのも宅見であった。
金の力で屈服させたなど噂があるが、ある古参組織の者の話によると、宅見の訪問を受け、組長の不在を告げると宅見は、組員が事務所内へと案内するのを断り、組長が帰って来るまで事務所の外に立ち、帰宅するまで待っていたという。訪問を受けた側の組員としては、本家の執行部である宅見を事務所の前に立たせておくわけにも行かず、右往左往したと言う。
本家の執行部でありながらも宅見は、先輩に対する敬意も忘れなかった。
こういう宅見の誠意も伝わり、最終的に古参の直参らの信頼も得て、賛成を得られたのだと思う。
またこの時、山一抗争終結と五代目体制発足に異論を唱え、竹中武が脱退を表明していた。渡辺芳則、岸本才三、近松博好が、竹中武を何とか山口組に引き留める事を協議していたが、宅見は竹中武の引き留めに反対だった。そこで宅見は、山口組の重鎮である心腹会・尾崎彰春会長に交渉して、竹中武の引き留め計画を潰している。
竹中武は筋の通ったヤクザと評価され、発言力もあり抗争においての実績も申し分なかったが、宅見は山口組の近代化に向けて、ヤクザも大きく方向性を変えなければ社会の中で生きていけないと考えた事だろう。
同年5月10日
山口組緊急執行部会で、宅見勝の若頭就任が内定した。
五代目山口組
組長・渡辺芳則
若頭・宅見勝(宅見組)
舎弟頭・益田啓助(益田組)
最高顧問・中西一男(中西組)
顧問・益田佳於(益田組)
顧問・小西音松(小西一家)
顧問・伊豆健児(伊豆組)
総本部長・岸本才三(岸本組)
副本部長・野上哲男(二代目吉川組)
若頭補佐・
英五郎(英組)
倉本広文(倉本組)
前田和男(黒誠会)
司忍(弘道会)
滝沢孝(國領屋下垂一家、後に芳菱会)
舎弟頭補佐・
石田章六(章友会)
大石誉夫(大石組)
西脇和美(西脇組)
この頃の宅見組は、山一抗争を経て旧一和会から山口組に復帰した組織を系列下に加え、数の上でも宅見組は膨張し、更に脱退した竹中組を離れた杉本組、宮本組、二代目西岡組を系列下に加えた。
本家若頭としての手腕
五代目体制発足に際して、宅見は組長の渡辺から組の運営は執行部に任せ、組長としての発言はしないという密約を得たとされているが、真相は分らない。しかし客観的に見て山口組の運営判断は大部分で宅見に任され、渡辺の意向が反映された形跡はほとんどない。
ただ、渡辺が率いた山健組からは、松下靖男、杉秀夫、中野太郎、盛力健児ら多数の者が直参に昇格した。
五代目体制発足と同時に宅見は、山口組の代表として外交を活発化させ、改めて友誼団体を整理し、全国に点在する独立組織を山口組に加入させる事に成功し、直参120人体制を確立するとともに一時は総組員数4万人を呼号した。
抗争事件についても全権を持ち、全面抗争だけでなく個別に事情を吟味したうえで、素早く和解に持ち込むなど状況判断に柔軟性を持たせ組織を統制した。
中野太郎との確執
中野会率いる中野太郎は渡辺芳則の五代目就任に伴い、山健組から本家直参に昇格し、渡辺の強い意向で間もなく若頭補佐に就任した。
初代山健組では元々渡辺よりも格上で、五代目組長渡辺とは特別な関係があった。中野会は直参昇格後、急激に膨張し大きな勢力となっていが、その数の背景には、同じ山口組系列を処分された者であっても自組織に加えるというご法度行為もあった。他の組織にいた者を拾うという行為は、処分した組織と拾う組織の力関係が大きく物を言う事になる。
渡辺が五代目に就いたことで、山健組系勢力は五代目の威光を傘に着て組内で無茶を押し通す事が常態化しており、中でも中野会系列の暴走は、当時の山口組内でも水面下の問題となっていた。中野は渡辺との関係にのみ重きを置き、他の執行部との和を重視しなかった。
宅見は若頭として組内の問題や利害関係を調整しなければならない立場にあり、
そういう中野とは溝が深まり執行部の中でも中野は孤立する事になる。中野は若頭としての宅見を立てることはせず、宅見と中野の不仲は本家では公然の事実となっていた。
そのような時に起こったのが中野太郎襲撃事件である。
平成8年(1996年)7月
中野太郎が行きつけの京都の理髪店で、四代目会津小鉄系四代目中島会傘下の小若会と七誠会の組員らに銃撃を受けた。理髪店にはあらかじめ中野会により防弾ガラスが使用されており、狙撃者には中野のボディガードが応戦し、会津小鉄系組員2人を射殺し中野太郎は無傷であった。
その日のうちに会津小鉄若頭・図越利次ら最高幹部が、山口組本家を訪れ、会津小鉄系組員が中野太郎を襲撃したことを謝罪した。
宅見勝は若頭として会津小鉄の謝罪を受け入れ、当事者の中野太郎に相談せず、即断で和解した。
中野は自分を抜きにした宅見の独断に、激しく抗議しその後更に宅見に対して不満を抱いた。
そして中野は自身への襲撃の背景を悟った。
この一件が決定的になり宅見の運命を決めた。
宅見勝の最後の日
平成9年(1997年)8月28日
宅見は岸本才三総本部長と野上哲男副本部長と共に、昼食を摂るため「新神戸オリエンタルホテル」のティーラウンジに向かった。3人が一番奥のテーブルに着いた直後、中野会の放ったヒットマンに銃撃される。
宅見は7発の銃弾を全身に受け、救急車で神戸市立中央病院に緊急搬送されたが、約1時間後の午後4時32分に死亡が確認された。
事件から3日後、中野会は破門され、襲撃時に流れ弾に当たって重傷を負っていた
一般人が、9月3日に死亡した事で絶縁処分となった。
こうして宅見勝はこの世を去った。
何が宅見を殺したのか。ヒットマンは拳銃の引き金を引いたにすぎない。
襲撃班のメンバーは人生を投げ、中野会は崩壊した。宅見の死と引き換えに何を得たのだろうか。
その後山口組は次の若頭を決める事が出来ず、長い期間迷走する事になった。これは宅見勝の存在や統制力が大きかったという事でもある。そもそも五代目山口組の中心人物こそが宅見勝であった。
良くも悪くも宅見は山口組を近代的組織へと大きく変質させ、それまでヤクザ社会の常識的慣習とされた親子関係さえデフォルメし、上場企業の人事のように渡辺芳則という自分から見ても若手を親分に据えた。圧倒的な親子関係ではなく大きな連合体として、適材適所の人事を行った山口組は横関係の対抗心や派閥を生みながら平成ヤクザへ大きく変貌を遂げた。
資金力や見た目から単純に経済ヤクザと表現される宅見だが、極道の世界においては圧倒的に武闘派だ。その経歴を辿るとヤクザとしての暴力性は常に持ち続けていた事がはっきりと分かる。そのうえにプラスして経済力や政治力を兼ね備えた。いわば近代ヤクザの完成形に近かった。
さらに現在の山口組の経済と外交の礎を築いた人物といえる。