宅見若頭射殺事件 ヒットマンらの公判記録

2013年6月5日
財津晴敏は埼玉県狭山市の西武新宿線沿いにあるアパートにいるところを兵庫県警に発見された。財津は逃げる素振りも抵抗する様子もなかったという。任意同行先の埼玉県警狭山署で、指紋などの身体的特徴が一致していることを確認。午後4時すぎ、逮捕状が執行された。
「2人を射殺したのは間違いない。見届け役として現場に行った」財津晴敏は素直に容疑を認めた。

こうして16年近くにわたる逃亡生活は終わった。

罪 状
殺人、銃刀法違反他

殺害人数
2名

求 刑
無期懲役

神戸地裁
宮崎英一裁判長
(裁判員裁判)

「事件概要」

指定暴力団中野会(解散)の元幹部財津晴敏被告は、他の組員ら5人と共謀。1997年8月28日午後3時35分頃、神戸市中央区にあるホテル4Fの喫茶店で、指定暴力団山口組の若頭であった宅見組組長(当時61)を射殺した。このとき、隣のテーブルに座っていた歯科医師の男性(当時69)が流れ弾で巻き添えにあい、病院に運ばれたが6日後の9月3日に死亡した。

財津被告は、中野会幹部吉野和利の指揮に従い、現場指揮を担当し、実行犯4人を率いていた。実行犯のうち、リーダー格である鳥屋原精輝元容疑者が2mの至近距離から組長へ2発を発射し、さらに倒れたところを2発発射した。吉田武受刑者が撃った銃弾が、歯科医師の男性に当たった。中保喜代春受刑者と川崎英樹受刑者も発射したが当たらなかった。

「動機について」

中野会会長が1996年7月、京都府八幡市内の自宅近くで暴力団会津小鉄会の組員に襲撃された事件で、宅見組組長が中野会長抜きで和解して収束させた目的が、会長を排除するためという見方が中野会内で広がり、さらに宅見組長がやらせたのではとの疑念を抱き、報復のため、幹部の吉野和利(病死)を中心に殺害の機会を窺っていた。
当初は東京で実行する予定だったが機会は無く、関西での実行に変更された。

「事件後について」

山口組組長(当時)は中野会会長を破門。さらに歯科医師の男性が亡くなった9月3日には、更に重い処分である絶縁に変更した。会長は絶縁理由に納得できず独立したが、この事件の報復として幹部メンバーが殺害されて組織力が低下し、2005年8月7日に解散している。

「事件の被疑者について」

射殺事件を指揮した中野会幹部吉野和利は事件後の9月、韓国に入国し、釜山に滞在。1998年7月6日にソウル市内のアパートで遺体となって発見された。45歳没。外傷はなく、脳卒中と判断された。

1998年10月2日
実行犯の中保喜代春は逃亡中に、仙台市にいたところを別件の詐欺容疑で逮捕。

1999年2月15日
吉田武は、別件の詐欺容疑で逮捕された。

1999年3月24日
兵庫県警捜査本部は吉田武と中保喜代春を殺人容疑などで再逮捕。

財津被告、鳥屋原精輝、川崎英樹を殺人容疑で指名手配した。

7月12日、捜査本部は川崎英樹を逮捕した。

1999年10月26日
神戸地裁は吉田武と中保喜代春に求刑通り懲役20年を言い渡した。

吉田武と中保喜代春は控訴。

2000年1月21日
神戸地裁は川崎英樹に求刑通り懲役20年を言い渡した。

川崎英樹は控訴。

2000年6月5日
大阪高裁で吉田武と中保喜代春の被告側控訴棄却。

吉田武は上告せず、確定。中保喜代春は上告。

2000年7月11日
大阪高裁で川崎英樹の被告側控訴棄却。

川崎英樹は上告せず、確定。

2002年1月16日
最高裁第二小法廷は、中保喜代春の上告を棄却し、刑が確定した。

吉田武、中保喜代春、川崎英樹の三名は現在服役中

2006年6月30日
鳥屋原精輝が神戸市東灘区の倉庫内で遺体で見つかった。56歳没。糖尿病と慢性肝炎が持病で、遺体は床ずれがあってやせ細った状態だった。死因は衰弱死だった。

8月25日
兵庫県警は鳥屋原精輝容疑者と98年に死亡した吉野和利を殺人と銃刀法違反容疑で容疑者死亡のまま書類送検した。遺体を遺棄した男性2人は、死体遺棄容疑で書類送検されている。遺体の遺棄を依頼した者は不明。

今回の一連の事件に関して兵庫県警はこれまでに実行役や運転手役、拳銃手配役など計18人を逮捕している。

2013年6月5日
兵庫県警は指名手配していた財津被告を、潜伏先である埼玉県狭山市のアパートで発見、逮捕した。兵庫県警は2013年、他の県警などから「財津容疑者らしき人物が埼玉にいる」などの情報を得て、捜査員を派遣。聞き込み捜査を重ね、財津被告の潜伏先を突き止めた。

9月18日、
2010年2月ごろ、知人を通じて元中野会系組員の男性に潜伏先を探すよう依頼したとして、犯人蔵匿教唆容疑で再逮捕された。犯人隠匿教唆容疑については、「殺人罪などで起訴しており長期の逃亡生活を解明できた」として、10月9日に不起訴となっている。

「裁判焦点について」

2014年3月10日 初公判
財津被告は起訴内容を認めた。

冒頭陳述で検察側は、財津被告が襲撃グループでは病死した吉野和利に次ぐ立場の現場指揮役で、実行犯4人の選定に関与し、事件当日もホテルを下見し、子供を含む23人の一般客が喫茶店にいることを認識しながら、実行を指示したと主張した。

一方、弁護側は、吉野和利に命じられ途中で計画に参加した。指示に逆らうことができなかった。吉野がいつだれと計画したのかも知らず、従属的な立場だったと反論した。

被告人質問で、財津被告は「(当初は)宅見組長を殺すとは聞いていなかった」などと繰り返した。

2014年3月11日 第2回公判
財津被告は、逮捕されるまで中野会幹部らの支援を受けながら関東地方のホテルなどを転々としていたことを証言。「幹部らが山口組から報復を受けているのを知り、自分も殺されると思った。自首しようとも思ったが、幹部から『面倒をみるから』と説得された」と明かした。
その後、検察側が歯科医師の妻の供述調書を朗読。「地獄の様な苦しみを味わった」と読み上げられるのをうつむきながら聞いていた財津被告は、「命を軽んじる考えがあった。申し訳なかった」などと謝罪した。

2014年3月12日 第3回公判
論告で検察側は、「自分の判断で実行犯に指示していた」と指摘。客が多くいる白昼の喫茶店で拳銃を発射して社会を震え上がらせたとし「偶然居合わせて亡くなった歯科医師の家族の悲しみは大きい」と述べた。同日の最終弁論で弁護側は、「指示命令を拒む自由はなかった。いつどこで実行するか独自に判断できたわけではない」として、懲役16年が相当と主張した。

宮崎英一裁判長は財津被告が「現場で指揮し、銃撃の実行に不可欠」と実行犯の指揮役だったと認定。「暴力団の内部抗争による事件で反社会性が極めて高く、一般人を含む2人の命が奪われた結果は重大。懲役20年となった実行犯よりも責任は重い」と述べた。

2014年3月14日 判決
無期懲役

財津被告は即日控訴した。

2014年7月10日
大阪高裁で被告側控訴棄却。