●後藤忠政
六代目山口組舎弟・後藤組組長
菅谷組内川内組の若頭補佐という四次団体組長から六代目舎弟にまで上り詰めた人物。菅谷政雄の直参ではなかったものの、戦闘力と経済力においては往時の菅谷組を思い起こさせる組織力があった。2008年に除籍。
●根本辰男
六代目山口組系二代目川内組組長
初代組長川内弘は、菅谷組舎弟から山口組の直系に上がろうと画策し、その後菅谷政雄との関係も悪化し破門された。その後菅谷組の刺客に射殺された。この菅谷組が起こした破門者を殺害するという事件が原因となり、菅谷組は山口組から絶縁された。
二代目川内組を継いだ根本は二代目山健組を経て、五代目山口組の直参となった。
2014年7月六代目山口組を破門された。
●浅野二郎
浅野組組長
菅谷組随一の実力者といわれ、菅谷政雄からの信頼も厚く菅谷組では舎弟頭を務めた。絶縁後も菅谷引退まで付き従った。
菅谷引退まで行動をともにし、その後は一和会に事務局長として加わっていた。山一抗争後は五代目山口組系安達組の相談役に就任。
●岡本雅博
初代松山会会長
菅谷組では若頭補佐を務め、解散後は独立組織として四国松山を統一し松山連合会を結成。その後五代目山口組に加入した。現在六代目山口組では二代目正田悟会長体制。
●川口義昌
二代目小車誠会会長
菅谷の舎弟であったが、菅谷組解散後は独立組織として活動。関西一のテキヤ組織として活動していたが五代目体制で山口組に直参として復帰。
その後三代目川口和慶は、六代目体制に入ってから組織を解散している。
●佐藤邦彦
佐藤組組長
菅谷組では若頭補佐を務めていたが、菅谷組解散後、初代竹中組組長・竹中正久の舎弟となり、四代目体制で直参に昇格した。
細見孝夫が二代目を継承し、その後六代目山口組を除籍となった。
●須藤潤
須藤組組長
菅谷組では若頭補佐を務めていたが、菅谷組解散後、初代竹中組組長・竹中正久の舎弟となり、四代目体制で直参に昇格するという佐藤組と同じ手順を踏んだ。
2006年に引退し須藤組を解散した。
●大原宏延
大原組組長
菅谷組解散時は菅谷政雄の若中だったが、その後初代宅見組へ。同組の舎弟頭を経て直参に昇格し、六代目山口組では本部長を務めている。
●奥浦清司
奥浦組組長
菅谷組解散時は菅谷政雄の若中だったが、その後長谷組へ。同組の舎弟頭を経て六代目山口組の直参へ昇格した。
●天野洋志穂
天野組組長
菅谷政雄の運転手を務めていたとされる人物。菅谷組解散後は、菅谷政雄の舎弟だった波谷守之が波谷組として独立したのにともない同組の舎弟となった。
山波抗争の終結条件として、波谷が若衆を手放す事になり宅見組へ移籍。同組で副組長を務めていたが宅見勝死去後、二代目宅見組には参画せず、天野組として直参に昇格。2008年六代目山口組を除籍となった。
●井奥文夫
井奥会
菅谷組内菅原組の傘下として活動。菅谷組解散後、当時は山健組傘下であった中野会に移籍した。その後は中野会の会長代行を経て五代目山口組の直参に昇格。後藤組の処分問題に連座して2008年絶縁となった。
●生島仁吉
生島組
兄である菅谷組若頭補佐の生島久治の後を引き受ける形で発足していると言われている。菅谷組解散後は、竹中組へ移籍していたが、山一抗争後に竹中武が山口組からの脱退を表明。生島は竹中組を脱退し、山健組へ加入した。
山一抗争時には、生島組の者が一和会幹部・中川連合会会長(中川宣治)を射殺している。
一和会の幹部クラスの殺害に成功したのは津山の杉本組と生島組だけである。
●波谷守之
波谷組組長
賭場での波谷の所作に惚れ込んだ菅谷に請われて舎弟となった。
菅谷組解散後は独立組織として活動したが、19990年に弘道会を相手に山波抗争が起こり抗争終結時に若衆を全員手放した。菅谷組解散後は終生山口組に復帰する事無く独立を貫いた。
1994年自宅で拳銃自殺した。