山口組 二代目組長 山口 登

山口 登

明治35年(1902年)、山口組初代組長山口春吉の
長男として生まれる。

大正14年(1925年)、23歳で二代目組長を継承。
新しく山口登の若衆となった者は、34人だった。
この時、山口組は 大島組・大島秀吉組長の系列組織だった。

その後は新進気鋭の若親分としてその名を響かせる。

二代目襲名後、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発した。
山口登は、大島組組員との喧嘩を諌めることはしなかった。

昭和2年(1927年)1月、大島秀吉宅に新年の挨拶に行った時、
大島秀吉は、山口登に山口組組員と大島組組員の喧嘩が
多発していることを咎めた。

山口登が形ばかりの詫びを入れたところ、川端勝次が山口登に
本心での詫びかを詰問し、山口登もこれには激怒した。

後の本多会々長・本多仁介が、川端勝次と山口登をなだめた。

大島組との決別

昭和4年(1929年)1月、山口登は大島組への上納金を
止めた事で、大島組を破門になる。

これ以降、山口組は独立組織として歩んでいく事になる。

昭和5年(1930年)3月、兵庫区浜新町の神戸中央卸売市場の
建設を計画を巡り、大島組と激しく対立した。

これを原因に神戸市新開地で、山口組の若衆が以前から
山口登と因縁のあった川端勝次を射殺した。

またこの年には、山口組事務所を兵庫区西出町から
同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、
神戸市中央卸売市場建設予定地のすぐ近くだった。

8月には、神戸中央卸売市場の杭打ちが始まり、
山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。

同年10月、二代目山口組のゴンゾウ部屋で世話になっていた後に
三代目組長となる田岡一雄が、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、
小屋主の態度に腹を立て、湊座の舞台に上がって大暴れした。
山口組が湊座の用心棒を務めていた事からこれが縁になり、
田岡一雄は二代目山口組で行儀見習いをすることになった。

昭和7年(1932年)、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。
山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、
山口登は無事だった。

この頃から、山口登は新しい資金源として、
浪曲興行に本格的に進出した。

また、神戸中央卸売市場の開業に伴い、山口組は
中央卸売市場に賭場を開いた。

昭和11年(1936年)1月20日、
山口登は正式に田岡一雄を若衆とした。

吉本興業との提携

同年9月、山口登は、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長の
吉本せいと会い、吉本興業への協力を依頼される。

同年10月、吉本せいから浪曲師・広沢虎造を吉本興業の
専属にしたいという相談を受け、広沢の吉本興業専属の話を
山口登が取りまとめた。

その後山口登はボクシングのタイトルマッチを国技館で行うなど
興行面でも山口組の名を売っていく事となる。

昭和15年(1940年)、吉本興業の広沢虎造をめぐり籠寅組と
トラブルになり、東京の浅草で話し合いの場を持った。
ところが話し合いはこじれ、ボディーガードの中島武雄は日本刀で
刺殺され、山口登も全身に18ヶ所の傷を受けた。
しかし、一命は取り留めた。

昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、
この傷がもとで死亡したとされている。
享年、41。