紫川事件

事件

昭和38年(1963年)12月8日
工藤組(今の工藤會)組員の坂下繁貴ら数人が、三代目山口組系地道組内安藤組の組員2人を拉致し、北九州市紫川の河川敷で石で撲殺し2人の遺体を紫川に遺棄。

事件の被害者は地道組内安藤組の者であるが、これは同じ山口組系の菅谷組内芦原興行社の者と間違われた、言わば誤認殺人であった。

背景

紫川事件に至るまでの背景はかなり複雑である。

昭和25年(1950年)
紫川事件の起こる13年前、北九州市若松区の地元組織の梶原組々員が、工藤組系草野組々長・草野高明の実弟を刺殺する事件を起こしていた。この事件では双方手打ちせず、その後も長年対立が続いていた。

草野高明は後に、工藤會の二代目に就任する人物である。

昭和38年(1963年)5月
紫川事件の7ヶ月前、三代目山口組の若頭で地道組々長の地道行雄が梶原組々長・梶原国弘に盃を下ろし、地道組の傘下組織とした。同時に同じ北九州市の安藤組々長・安藤春男と長畠組々長・長畠広をも地道組傘下に収めた。地道にとっては北九州市進出への大きな一歩であり、工藤組と対立を続ける梶原組にとっても大きな後ろ盾を持つ事になった。

その後梶原組は地道を通して、日本プロレス協会の副会長だった田岡一雄に、北九州市での力道山のプロレス興行の開催を依頼した。対抗する工藤組の草野高明は、同じ北九州市で北原謙二の公演の開催を決めた。

当時のヤクザにとって興行は、大きなシノギであると同時に、その地域に対して自らの力を誇示する意味合いの強い大事なイベントであった。

同年9月
三代目山口組系菅谷組の芦原章男が、菅谷政雄の意を受け北九州市小倉区に、芦原興行社の事務所を開設した。

芦原興行社は、工藤組の幹部・前田国政の経営する前田プロダクション事務所の真向かいに置かれた事で、工藤組は地道行雄にクレームを入れた。工藤組に応じた地道は、芦原興行社の撤収を約束。

地道は菅谷に芦原興行社の看板を下ろすように指示したが、菅谷は反論し口論となる。最終的に菅谷が折れる事で話を終わらせたが、菅谷は地道の指示を「額面通りに」受け、芦原興行社の事務所から、「代紋を下ろした」だけで、実質的な事務所はそのまま置いた。

芦原興行社は、北九州市でキャバレーショーなどを手掛けるなど、精力的に活動し、不満に思う工藤組と芦原興行社は睨み合い、一触即発状態に入る。

同年10月1日
草野組は、石松組の支援を受けて、北九州市で「北原謙二ショー」を開催した。ショーの閉演後、警備に当たっていた石松組の組員が、梶原組の組員に銃撃される事件が起こる。

梶原組と草野組の対立に山口組からは200人を北九州市に派遣。工藤組幹部・前田国政と菅谷組若頭・上田亨との間で話し合いの場が持たれたが、話し合いは決裂した。

同年10月21日
梶原組は、山口組の支援を受けて、北九州市で力道山のプロレス興行を行った。

同年10月29日
工藤組幹部・前田国政らが、芦原興行社に乱入し、芦原興行社の組員に暴行。

同年11月28日
北九州市小倉のクラブ「美松」の前で、菅谷組々員2人が工藤組幹部・前田国政を射殺。

同年12月1日
福岡県警は前田国政の射殺犯として、菅谷組々員の2人を逮捕した。

そして紫川事件が起こる。

まずは事件までに、九州地区への進出を競い合う山口組の幹部同士の対抗心がある。地道の進出に負けまいとする、菅谷の衝突覚悟の進出方法に、地道が待ったをかけた。地道の指示に不満を持つ菅谷が、北九州で小競り合いを起こし、挙句の果てその巻き添えとも言える形で、菅谷組系と誤認された地道組傘下の者が殺されたのが紫川事件である。

事件後

同年12月21日
菅谷組の暴走のため傘下組員を誤認殺害された地道行雄は、その後も菅谷政雄と敵対したが、自宅の新築祝いを行った田岡一雄が、その席上、両者を和解させた。田岡は地道に対する処分も、菅谷に対する処分も行わず不問とした。

同年12月24日
大分県別府市で、山口組として工藤組との手打ち式が行われた。仲裁人は大野鶴吉、晩酌人は津村和麿。立会人は工藤組側に竹田辰一、山口組側に前山真砂好。山口組からは舎弟頭・松本一美、若頭・地道行雄、若頭補佐・菅谷政雄、山本健一ら15人が出席。工藤組からも松岡武ら15人が出席した。田岡の出席がない事で工藤組々長の工藤玄治は式への出席を見合わせたが、宴席には出席した。

この紫川事件を切っ掛けにして、北九州市では市民や県警による「暴力追放キャンペーン」が展開された。

紫川事件を起こした事で服役した草野高明は工藤組を脱退し、出所後自ら草野一家を結成。そこから工藤会と草野一家は抗争に突入し、死者を出しながら福岡県全域で激しい銃撃戦を展開した。工藤会系田中組々長・田中新太郎が、草野一家の溝下秀男が率いる極政会によって射殺され、以降は激化の一途を辿った。

余談として、
紫川事件の起こる13年前、後に工藤連合草野一家の総長となる草野高明の実弟を刺殺する事件を起こし、地道組傘下に入ってからは地道を通して田岡を動かし、北九州で力道山のプロレス興行を打った、三代目山口組系地道組内梶原組々長・梶原国弘はその後ヤクザを引退したが、1998年になって北九州市で起きた漁協の元組合長射殺事件で、工藤會の者に射殺されている。