事件
昭和31年(1956年)7月13日
夏祭りの夜、小松島市内の繁華街にあるパチンコ店「アルプス」の2階にある本多会系の勝浦組傘下の平井組事務所に、三代目山口組系二代目小天竜組の組員3人が日本刀を手に殴り込んだ。平井組も応戦し二代目小天竜組の組員1人が死亡、2人が重傷を負い、平井組の組員2人も重傷を負った。パチンコ店「アルプス」は平井組々長・平井龍雄が経営していた。
背景
徳島県小松島市は、戦前から博徒として二代目山口組々長・山口登の舎弟で初代小天竜組々長・新居利治と、テキヤ稼業の平井組々長・平井龍雄が同じ地域で小競り合いを続けていた。 昭和22年、新居良男が二代目小天竜組々長に代替りしても対立は変わらなかった。
勢力においては、平井組が数の上でも優勢で、平井組々長・平井龍雄は四国のテキヤ業界でも切れ者で通っていた。その平井組がパチンコブームに乗り、昭和25年に「大小」という機械を置いて商売を始めた事から、博徒組織である天竜組は「賭博は博徒の物なので縄張り荒らしだ」と平井組に抗議。 これに対して平井組は「機械は盆とは違う」と抵抗したことで、両者の関係は更に悪化した。
以上のような経緯から事件は起こった。
経過
同年7月16日
事件から3日後、地元の有力県会議員や本多会最高幹部の吉田会々長・ 吉田友三郎らの奔走で、事件は早急に手打ちとなった。
手打ちになったとはいえ、根本的な原因は解決された訳ではなく、両者の間に不気味なわだかまりは残ったままだった。しかし取り敢えず、抗争への発展は回避された。
昭和32年(1957年)10月13日
かねてから二代目小天竜組と対立関係にあった、平井組と同じく勝浦組傘下の福田組の者が、小天竜組事務所前の神田瀬川岸壁で若い男とケンカして、相手を水死させる事件を起こした。 被害者は小天竜組とは関係のない人物だったが、それを見ていた小天竜組の組員は、自分の事務所前でトラブルを起こされた事で腹を立て、福田組の組員を川に突き落とした。
福田組は、小天竜組が前年に事件を起こした平井組と同門で、福田組々長・福田栄と平井組々長・平井龍雄は同じ勝浦組傘下で兄弟分の関係にある。前年の事件も今だくすぶっており、福田組を相手取るとなれば当然平井組も福田組に肩入れし、勝浦組ひいては本多会が乗り出してくる可能性もある。
そういう緊迫した情況のなか、現場取材の新聞記者を二代目小天竜組々長・新居良男が小突いてしまい、被害届を受けた県警に事件化されるという事も起きた。
同年10月17日
山口組本家に相談すべく、二代目小天竜組々長・新居良男は神戸へ向かった。
新居から話を聞いた山口組若頭の地道行雄は、山広組々長・山本広と地道組の若頭・佐々木道雄を連れ本多会の幹部と話し合い、和解する事で話はついた。
同年10月20日
神戸からフェリーで小松島港に着いた二代目小天竜組々長・新居良男を福田組の組員が銃撃。三発の銃弾を受けた新居は重傷を負ったが、一命はとりとめた。
この銃撃事件は地道を激怒させ、安原政雄、吉川勇次、山本健一、尾崎宗次(彰春)、山口組の組員ら100人以上を動員し小松島行きのフェリーに乗り込んだ。神戸港と小松島港それぞれに両県警が緊急配備し、四国行きを断念するよう説得するため、フェリーには兵庫県警の刑事も乗り込んだ。地道ら山口組関係者は、あくまでも「見舞いに行く」と応じなかった。同じフェリーには急を聞いて本多会の副会長・酒井吾意智も乗り込んだ。
同年10月21日
本多会の酒井吾意智と山口組の安原政雄が小松島署を訪れ、事態収拾の意向を伝えた。
同年10月24日
両者の間で和解が成立。仲裁には自民党の小西寅松代議士も介入している。
事件後
二代目小天竜組々長・新居良男が銃撃を受けた直後、山口組は即座に大量動員し小松島に集結したが、一気に攻撃を仕掛けるでもなく、相手の出方次第という構えを見せた。これに対し本多会では積極的に和解へと働きかけ、それを受ける形で山口組として和解に応じている。この時の示威行為とも言える圧倒的武力を背景にした大量動員は、その後各地へと侵攻する三代目山口組では幾度も繰り返された。そういう意味でも山口組の全国制覇に向けた先駆けとも言える事件だった。