石川裕雄

一和会の襲撃部隊

1985年1月26日
四代目山口組の竹中正久組長、中山勝正若頭、南力組長秘書らが4人組の襲撃班により射殺された。

実行犯は4人。二代目山広組内同心会々長・長野修一、二代目山広組直参・長尾直美、二代目山広組内清野組幹部・田辺豊記、二代目山広組内広盛会幹部・立花和夫、この実行犯4人の他に尾行や見張り、襲撃班への連絡役3人がいたとされている。実行犯4人の人選をしたのは、二代目山広組の若頭で三重県に本拠を置く後藤組々長の後藤栄治だった。竹中組長暗殺はこの後藤栄治と石川裕雄の二人を中心にした混成部隊で行われた。

石川裕雄はこれら暗殺チームの総指揮をとった首謀者とされている。事件当時石川は36歳。前年の一和会発足と同時に北山組から一和会々長の山本広の直参に直っていた。当初石川は先頭に立ち自分自身の手で竹中を殺る事を考え、自身の率いる悟道連合会の者数名にその手伝いをさせるつもりで準備にかかっていた。あくまでも自分が実行役との考えでいた。

竹中襲撃を計画するまでに石川は宅見組々長・宅見勝を殺る計画を立てていた。石川の元々の親筋に当たる北山組から宅見組に移籍した原連合の者を悟道連合会の者が大阪府堺市の病院で銃撃する事件もあった。

その後ターゲットを竹中組長一本に絞り、竹中組長の身辺を調査して愛人の住む吹田市江坂のマンションもすでに割り出していた。トップの竹中組長にターゲットを変更した理由は、8月に山口組から友誼団体に向けて出された「義絶状」が大きく影響したと考えられている。

石川は竹中組長の愛人が住む江坂の同じマンションの別階に襲撃拠点とするための部屋も借りていた。

いっぽう後藤栄治の方は二代目山広組の若頭として山本広の一和会本流という自負と責任があった。竹中を殺るなら二代目山広組の手で…と考えていた。しかし、実行犯の手配は済んでいたものの竹中の行動がつかめず焦りがあった。そんな後藤が石川に頼み込む形で石川の悟道連合会グループに後藤の山広組グループが合流した。

マンションを見渡せるビルの屋上に見張り役が張り込み、竹中組長の動きをマンションの別階の部屋で待機する襲撃班に無線で知らせるという段取りだった。

石川裕雄とはどういう男なのか

石川裕雄は北山組時代の昭和40年代の後半に同じ山口組系の小西一家の若頭を日本刀で斬殺するという事件を起こしている。原因は相手が北山組の者に覚せい剤を売る事を石川が何度も諫めたが、相手がそれを聞き入れなかった事が原因だった。この事件は相手にも落ち度がある事、相手が先に拳銃を発砲してきた事、石川が相手を病院に運び込んだ事、その後自首した事もあり殺人罪ではなく傷害致死罪で起訴された。

事件の原因となった経緯について直系組長間で話し合われたが、山口組は薬物をご法度としている事もありその点で石川に大きな非はないとされ、小西一家と北山組の間で抗争に発展する事はなかった。この件で石川は断指している。

5年間服役し出所した石川はアメリカのネバダ州に留学した。語学以外に現地では空手大会に参加したり、空手で知り合った現地の警官から射撃訓練を受けたりした。この頃傭兵として紛争の続く中東に渡る事も一時は真剣に考えたが、日本へ帰国することにした。

石川が帰国した頃は京都のベラミで田岡組長が大日本正義団の鳴海清に狙撃され大阪戦争ピークの頃だった。三代目山口組の時代、石川は山健組の渡辺、北山組の石川と並んで称されるほど、将来の山口組を背負って立つ人物と評価されていた。

襲撃事件後

三代目山口組系北山組の石川としてヤクザ稼業にあった石川だが、分裂後一和会に連なり一和会々長・山本広の直参に直っていた。石川のヤクザとしての立場上からも山口組は抗争相手となり、トップに立つ竹中組長は暗殺すべきターゲットとなっていた。

事件後、現場の見張り役から連絡を受けた石川は一和会本部に向かった。そして二番目、三番目のターゲットとして渡辺芳則と宅見勝の名前をあげ、その暗殺を志願している。しかし一和会の幹部らは反対した。この時石川は一和会の負けを悟った。山口組の猛反撃を考えるとここが勝負の潮目だった。その後の山口組を見るとこの時の石川の見方は、かなり正確に戦況を見ていたという事が今になって分かる。竹中組長の暗殺については一和会内でもやり過ぎという意見とよくやったという意見に評価は割れていた。

一方の後藤栄治は、山口組系弘道会内菱心会組員・竹内照明らに自身が率いる後藤組の若頭・吉田清澄を拉致され後藤組の解散を迫られた。これに対し後藤栄治は、解散届を三重県津警察署に届け、速達で山口組本部に「詫び状」を送付。吉田清澄の解放と引き換えに自首する事を約束。菱心会組員・竹内照明らは吉田を解放したが後藤栄治は自首しなかった。この拉致事件に関わった竹内照明は現在三代目弘道会の会長になっている。

そして指名手配を受けた石川は一年半後の1986年7月福岡県のゴルフ場で逮捕された。後藤栄治は石川と同様に指名手配されたが、その後現在に至るまで行方をくらませたままとなっている。

その後、見張り役3人に20年、実行役4人に無期懲役、石川には死刑が求刑された。石川は公判で、「自分の信念でやったこと、皆は自分の命令に従っただけで、責めは自分一人にある」と死刑求刑に眉一つ動かさなかった。求刑に狼狽した弁護人が石川に解任を申し出たが、逆に石川がなだめて慰留している。

1987年3月、大阪地裁は見張り役3人に10年、実行役4人に20年、石川には無期懲役を言い渡した。しかしこれらの判決を不服とした検察側が控訴した。

そして1989年3月、大阪高裁は検察側の控訴を棄却し一審通りの判決で確定した。

事件からおよそ30年がたつ。石川裕雄は現在も旭川刑務所に服役している。無期懲役とはいえ石川はすでに仮釈放の対象となる時期に来ている。しかし仮釈放にはいくつかの要件を満たす必要があり、受刑者も面談を通して刑務所側の意向に沿う意思表示をしなければならない。具体的には、自分の罪は間違いであり、今は反省しているという意思表示と、ヤクザを辞めるという意思表示が必須となる。

石川は今も自分は現役のヤクザであると意思表示している。裁判でも石川は被害者について、「冥福を祈っている。それが仁義というものだ」としながらも「日本男児としてやらねばならなかった」「正義をつらぬきたかった」と言い切っていた。こういう石川の仮釈放は難しい。「時期」は満たしても「要件」が満たせない。

しかし、石川を待つ支援者達は1日も早く仮釈放されるのを今も待ち続けている。

かつて三代目山口組において兄弟分同士であった者たちが、分裂後命の奪い合いをしたのが山一抗争である。この抗争はヤクザの刹那と残酷さを改めて世間に知らしめた。抗争は山口組側の勝利で幕を下ろしたが、歴史は勝者の歴史であり大いに美化される。しかし石川裕雄のように山口組の歴史上かつてないほどのダメージを与えた者はいないだろう。石川の仕事は極道として実に鮮やかであったと言うほかない。

去年、旭川刑務所を満期出所した山口組系の現役ヤクザによると、「石川先輩とは中で一緒にバトミントンをさせてもうた」と言っていた。