大阪戦争

事件

昭和50年(1975年)7月26日深夜
大阪府豊中市の喫茶店「ジュテーム」で二代目松田組系溝口組々員が、山口組系佐々木組内徳元組舎弟・切原大二郎ら4人を銃撃し3人が死亡、1人が重傷。

いわゆるジュテーム事件が発生。

背景

ジュテーム事件まで

二代目松田組系溝口組は伝統ある博徒組織で、大阪のキタに常盆を持っていた。そこに山口組系佐々木組内徳元組の者らも出入りするようになり、次第にサゲ銭なしで口張りをするなど、嫌がらせをするようになっていた。徳元組の者らは山口組系佐々木組の代紋を傘に着て、溝口組の賭場を完全に見下していた。この事で溝口組では対抗上賭場にやって来た徳元組の者らを出入り禁止として、追い返した。これに腹を立てた徳元組の者らが、自分達のメンツを潰した話を付けようと、豊中のジュテームに出て来いと溝口組に電話を入れた。

溝口組では組長の実弟・溝口弘美ら7人の組員が拳銃を持ちジュテームへと向かった。博徒にとって賭場は生命線であり、賭場荒らしのような事をされて黙って見過ごす事は出来ない。出入り禁止にしたのは当然であり、溝口組にしたら、むしろ控えめで下手に出た措置である。これ以上舐められる訳にいかない。事の成り行きによっては拳銃の発砲もやむなしと考えたのは当たり前である。

7人がジュテームに到着し入り口のドアを開けると、切原組の一人が上着のポケットに手を入れ拳銃を向ける素振りをした。溝口組を完全に甘く見ていた。その瞬間、徳元組の4人に向けて一斉に拳銃を乱射し溝口弘美ら7人は引き上げた。

ジュテーム事件直後の山口組

事件の直後、山口組ではすぐに各直系組織に連絡は入っていたが、ちょっかいを出しに行った佐々木組側に非があり、単なる傘下団体の枝組織の喧嘩で、佐々木組が対処すべき問題だと回りは見ていた。実際事件後も溝口組の賭場に山口組の者は出入りし、山口組全体としての抗争事件と考えていなかった。

三代目山口組若頭補佐・菅谷政雄(菅谷組)は、二代目松田組々長・樫忠義と親しく、早々に和解工作を進めていた。菅谷と松田組は縁が深かった。菅谷組の生島久次は松田組系村田組傘下の大日本正義団会長・吉田芳弘とは兄弟分の関係であり、菅谷の実兄、菅谷三蔵は大阪の西成で独自に菅谷組を率いており、松田組とは初代の代から友好関係にあった。更に三蔵の実子、菅谷一夫は松田組に籍を置いた事もあった。そのような関係から菅谷は積極的に和解工作をした。
菅谷のこの独断は、後になって謹慎処分を受ける事になる。

松田組々長・樫忠義も関西懇親会を通じてジュテーム事件を詫び、自分の指でも腕でも切り落として謝罪したいと意向を伝えている。

和解の進行と抗争の拡大

ジュテーム事件自体は、元の原因が佐々木組側にあるという事もあり、山口組にとっても枝組織の小さな事件だった。事件の処理についても松田組々長・樫忠義が謝罪の意思表示もしており、正式に和解の話も進もうとしていた。

山口組の若頭・山本健一も樫組長の事を以下のように評価した。
「松田組の樫組長は、37~8やいうて子供や思うとったけど、大した人物やないか。ワシより偉いやないか」

和解金については、
「要求した事なんてないわ。第一ねぇ、喧嘩して金取るいうのは一番の恥ですわ。人間の命、これ金に代えられますか?若衆の体をやね、金で売り買いするような事、習うたこともないしね」

しかし山本健一に和解話が持ち込まれたその日の夜に、山口組系中西組々員が射殺された。ジュテーム事件以降の経過は以下の通りである。

昭和50年(1975年)8月23日
松田組系村田組の村田岩三組長の自宅に銃弾が打ち込まれた。

同年同日
村田組長宅襲撃から4時間半後の24日午前4時15分
村田組傘下の大日本正義団幹部・平沢勇吉ら2人が、山口組本部に拳銃6発を撃ち込んだ。

同年8月30日
大阪市淀川区にある松田組系瀬田会の会長代行・永野良亮の自宅を3人の男が襲撃し、組員1人が負傷。

同年9月2日
山口組系中西組の羽根悪美、上野三六、溝端和吉ら3人は、
大阪市住吉区にある松田組々長・樫忠義の自宅に拳銃3発を撃ち込んだ。

同年9月3日
山口組系中西組事務所前の路上で、警備のため車内に待機中の中西組内光道会組員が、カップルを装った大日本正義団の組員に銃撃され死亡。

つまり、山本健一に和解話が持ち込まれた数時間後に中西組系組員が射殺された。この事で山口組側は態度を硬化させ、和解話は立ち消えとなった。実は当初から謝罪の意志を表明していた松田組々長・樫忠義だったが、この時の松田組内では早々の手打ちを望む者と、徹底的に山口組と戦うべきと主張する者に分れ組内の意思統一が図れていなかった。

そして中西組の者が殺された事で和解話は流れ、独断で和解話を進めようとしていた菅谷政雄は、10月に入って若頭補佐を降ろされて謹慎処分となる。

山口組は松田組との問題解決をみず年を越す事になる。

日本橋事件

年が明けてからも抗争は大きく発展する事もなく、小康状態ともいえる状況が続いていた。しかしこの事は、山口組々長・田岡一雄は不満に思っていた。

若頭である山本健一に「ケン、お前どないするつもりや?」と言葉をかけている。

ヤクザは年季を積んだ大物に成れば成るほど、具体的な物の言い方はしない。
然るべき決着を着けろという意味である。山本健一にとっても事件は山口組としての事件ではなく、佐々木組で決着を着けるべきと考えていた。またその事を田岡に指摘された以上、早急に何らかの決着を着けなければならなかった。健一は佐々木組々長・佐々木道雄に何らかの行動を迫ったに違いない。

またこの頃田岡は、「道雄はゴルフばっかりやっとってええんか?」と発言した事を警察は掴んだ。この発言を教唆と捉えることは出来ないかと一時は協議されたが結局見送られた。

年が明けてからは、4月と7月に山口組側から松田組系に銃撃を与えたが、有効打といえる戦果はなかった。

昭和51年(1976年)10月3日
大阪市浪速区日本橋の電器屋街、通称「でんでんタウン」で松田組系村田組内大日本正義団会長・吉田芳弘が射殺された。
ヒットマンは佐々木組の若頭補佐片岡組々員・與(与)則和、同じく佐々木組の若頭補佐入江組々員・北中政実。いずれも佐々木組の執行部、片岡昭生、入江秀雄の若い者が選ばれている。この日本橋事件では佐々木組から合計13人の逮捕者を出した。総指揮を執った佐々木組若頭の松本忠には首謀者として懲役20年が言い渡された。

この事件で佐々木組は、前年のジュテーム事件の報復をはっきりとした形で果たした。ここまでが「第一次大阪戦争」と言われているが、大日本正義団では射殺された吉田芳弘の跡を実弟の芳幸が継ぎ、二代目体制が発足していた。初代会長・吉田芳弘の死が新たな抗争の始まりでもあった。

昭和52年(1997年)3月
初代会長吉田芳弘を殺された二代目大日本正義団では、報復に佐々木道雄を狙い三宮にアジトを用意したが、事前に察知した警察に踏み込まれ手榴弾や自動小銃を押収された。組員15人が逮捕され、二代目会長の吉田芳幸も逮捕された。芳幸は保釈でシャバへと出てきたが、判決が出れば5年くらいの収監が予想された。

昭和52年(1997年)4月
山口組では菅谷政雄を菅谷組内での内紛を理由に絶縁処分にした。

ベラミ事件

昭和53年(1978年)3月
初代会長吉田芳弘の運転手を務めていた二代目大日本正義団幹部・鳴海清は、報復を誓いその標的を山口組のトップ田岡一雄に絞っていた。田岡が京都のクラブ「ベラミ」を時折訪れる事を知り、自分も「ベラミ」へと通い始め機会をうかがった。
二代目大日本正義団の山口組に対する報復の火は消えていなかった。

昭和53年(1978年)7月11日
三代目山口組々長・田岡一雄が京阪三条駅前のクラブ「ベラミ」で大日本正義団幹部・鳴海清に狙撃された。銃弾は田岡の首の皮を掠め、奇跡的に一命を取り留めた。他には近くの席にいた医師2人が、流れ弾で重傷を負った。

この時、田岡に付いていたのは弘田武志(弘田組)、羽根悪美(羽根組)、仲田喜志登(二代目梶原組)、細田利明(二代目細田組)、他に運転手役として二代目細田組々員が一人だった。

救急車が到着したが田岡は流れ弾で負傷した堅気の人に譲り、田岡自身は車でかかりつけの尼崎市の病院に運ばれた。

病院で田岡は
「ワシを狙うなんてえらい奴っちゃなぁ。しかしな、自分が助かる気で撃つから失敗するんや。自分が死ぬ気でワシを撃ってくるんやったら、もっと近くへ寄って、もっと狙って撃つべきやった」と言っている。

ベラミ事件から数時間後、山健組内道志会の組員3人が、神戸市灘区の菅谷組若頭代行・赤坂一夫の自宅に乱入し、拳銃を乱射した。事件直後は誰が田岡を狙ったのか判明しておらず、前年4月に山口組を絶縁になりながらも、解散を拒んでいた菅谷組の手による可能性も疑われた。
しかし事件後、菅谷自身が菅谷組の関与を否定している。

警察は事件から2日後には、田岡を撃った犯人を割り出していたが、発表を控えた。しかし7月14日の朝刊にスッパ抜かれ、鳴海清は全国指名手配となった。

田岡を狙った事で松田組は、自ら佐々木組との対立抗争を山口組全体を相手取る抗争へ発展させた事になる。松田組内で主戦論を張る大日本正義団による、ある意味暴走であった。

田岡が負傷したベラミ事件は山本健一を激怒させ、以降は山健組を中心に松田組への無差別攻撃へと一気にエスカレートする。

猛攻撃から終結宣言へ

逃亡中の鳴海清は、大阪の夕刊紙に挑戦状を送り付け山口組を挑発した。
これらを受けた山口組からの報復は当然のように激化した。

昭和53年(1978年)8月17日
大阪市住吉区の銭湯「大黒温泉」で山口組系山健組内盛力会の竹崎光男、成岡忠造が松田組系村田組若頭補佐・朝見義男を射殺。

同年9月2日
和歌山県和歌山市で山口組系山健組内健竜会の西住孔希、道躰方彦が松田組系西口組々長の自宅を警備していた組員・矢熊元彦と下村郁生を射殺した。

同年9月17日
六甲山の瑞宝寺谷の雑木林で腐乱死体が発見される。
発見から3日後、死体が鳴海清と発表される。

同年9月18日
大阪市阿倍野区の路上で山口組々長・田岡一雄の直参・羽根悪美が松田組系大日本正義団幹部・金築和一を銃撃し、軽傷。

同年9月24日
和歌山県和歌山市で山口組系宅見組の大丸均、松本正夫が松田組系福田組内杉田組・杉田寛一組長を射殺。

同年10月4日
大阪市平野区のスナックで山口組系山健組内健心会の江口健治、松尾貢が
松田組系村田組若頭・木村誠治を銃撃し、重傷。

同年10月8日
兵庫県尼崎市の路上で山口組系藤原会と同じく山口組系玉地組の混成チームが松田組系瀬田組内石井組々員・西森勝也を射殺。

同年10月24日
大阪市西成区で山口組系溝橋組内勝野組副組長・松崎喜代美が、松田組系大日本正義団舎弟・柴田勝を射殺。

山口組はベラミ事件後、短期間のうちに松田組系の者6人を殺害した。
一方で山口組若頭補佐・清水光重はこの時期、独断で関西懇親会と和解への交渉を進めていた。ところが抗争について全責任を負う若頭・山本健一は別の考えを持っていた。今となっては、田岡を傷つけた松田組と対等に手打ちをするつもりは毛頭なく、思案を巡らせていた。ジュテーム事件直後、山口組も一度は譲歩し和解が成立しかけた。しかし騙し討ちのような形で中西組が襲われ、挙句ベラミ事件を引き起こし田岡の命まで狙われた。とうてい和解の席に着く気などない。

そんな健一の知らないところで和解話を清水は進めていたが、健一から清水にストップがかかった。清水は労を取ってくれた会の者らとの間で、板挟みとなり断指するに至った。

同年11月1日
山口組は本家にマスコミを集めて、一方的に抗争終結宣言を出し終止符を打った。

抗争後

山口組の抗争終結宣言の後、二代目松田組は松田連合と名称を変え、組織の立て直しを図ったが、昭和58年5月解散した。

大阪戦争において山口組は、圧倒的な攻撃力の差を世間に見せ付けた。特に田岡が狙われたベラミ事件以降、その攻撃は苛烈を極めた。その分の代償も大きかった。多くの逮捕者を出し、皆を累計すると数百年の懲役年数になる。松田組への暗殺の実行者や首謀者は長期服役し、この後山口組が辿る事になる分裂劇や、その後の山一抗争中は塀の中で過ごし、社会復帰するのは山口組が五代目体制になってからの事である。

大阪戦争のきっかけを作り、日本橋事件でも多数の逮捕者を出した佐々木組は、分裂後一和会に参画し、その後消滅した。帰るべき組を無くした佐々木組の者らは山健組、古川組、その他山口組系の組織へ加入し、一部の者は堅気になった。

大阪市住吉区の銭湯で松田組系村田組若頭補佐・朝見義男を射殺した盛力会は
首謀者として会長・盛力健児も服役した。盛力は獄中で五代目山口組の直参に昇格したが、宮城刑務所を出所した時には平成8年になっていた。

和歌山市で松田組系西口組々長の自宅を襲撃し、2人を射殺した健竜会は五人の逮捕者を出し、首謀者の井上邦雄は17年服役した。井上が出所した時、かつての親分渡辺芳則は山口組本家の五代目組長に就いており、健竜会の四代目会長に就任した井上は、平成17年には山健組の四代目組長に就任し、六代目山口組の若頭補佐に就任した。

大阪市平野区のスナックで松田組系村田組若頭・木村誠治を銃撃し重傷を負わせた健心会では、実行犯の松尾貢をサポートした江口健治が二代目健心会を襲名し、六代目山口組の若頭補佐に就任している。

江口健治にとって木村誠治は同じ地元の先輩に当たり、その後裁判中の江口を、大阪拘置所に木村が面会に出向いた。

江口によると
「お前がワシを知ってるなら、お前本人がピストル持ってワシを殺しに来い、と。木村さんにえらい怒られました。無罪にしてやりたいとも言うてくれました。嘆願書を出そうかと言われましたが、本人を目の前に置いて、頼みますなんて言葉出ませんわね。やっぱり渋い人です。本当に根性のある人で、ワシだけやない、みんなに面会に来てくれました」

組織力、数の上では圧倒的に山口組が松田組を凌駕したが、山口組相手に引かなかった松田組の中には、山口組の者でも認めざるをえない立派な男がいた。