JR東京駅八重洲口射殺事件 消えた2億円

事件

平成14年(2002年)11月25日
JR東京駅八重洲口にある富士屋ホテルの前で、二代目佐藤組内六甲連合会々長・亀谷直人が、三代目山健組内侠友会々長・鶴城丈二を白昼射殺した。ともに五代目山口組系同士だった。

背景

平成9年(1997年)8月
東京都港区の路上で、車で移動中の三代目山健組々長・桑田兼吉ら一行が、警視庁の検問を受けた。桑田組長の後続車両から拳銃が出てきたことから、まず組員が銃刀法違反の現行犯で逮捕。同時に桑田組長も拳銃の共同所持容疑で現行犯逮捕された。

平成10年(1998年)1月
桑田兼吉を共謀共同正犯で起訴。懲役10年を求刑。

平成12年(2000年)3月
桑田兼吉は東京地裁で懲役7年の判決を受けた。桑田は即日控訴。

平成13年(2001年)10月
東京高裁は控訴を棄却。桑田は最高裁に上告。

平成14年(2002年)11月25日
上告中の桑田兼吉の二度目の保釈請求が却下されたこの日、事件が起こった。

事件までのいきさつ

なぜ桑田の保釈請求が却下された日に、事件が起こったのか?

事件当時、若頭の宅見勝が射殺されてから次の若頭候補、司忍、瀧澤孝、桑田兼吉ら若頭補佐が相次いで逮捕され若頭不在の期間が5年に及んでいた。そんな中、桑田組長の保釈が認められず山健組では苦慮していた。

とりわけ五代目山口組々長・渡辺芳則の意向も強くはたらいていた。
渡辺は自分の後継者には井上邦雄を望んでいたが、井上は当時まだ三代目山健組の若頭補佐であり、本家の直参にも上がっていなかった。その井上にまず山健組の四代目を継承させるためにも、山健組三代目組長の桑田を一度社会復帰させ、話し合う必要があった。

また山健組の跡目候補には山健組若頭の橋本弘文がおり、跡目候補としては井上よりも一歩リードしていた。そういう井上が山健組の四代目を継ぐ為には、解決しておかなければならない問題が多数あり、その為にも桑田の保釈は、渡辺と山健組にとって必須だった。山健組では、山健組内侠友会々長・鶴城丈二、同多三郎一家総長・後藤一男、同繁田会々長・繁田誠治ら3人が担当し、桑田の保釈工作に動いていた。

なにがなんでも桑田の保釈が必要だった山健組に近付いたのが、亀谷直人だった。
亀谷は、当時の検事総長・原田明夫には貸しがあり、自分が原田を動かす事で桑田の保釈を可能に出来ると持ちかけた。亀谷は、検察の裏金作りを告発しようとしていた三井環の口封じ逮捕を画策していた検察に、三井逮捕のでっち上げで検察に協力した事がある。
三井の逮捕容疑はいくつかあったが、亀谷の配下は贈収賄で三井への贈賄を証言し、三井の有罪に協力していた。これらの事実から亀谷が検察に持つパイプは、あながち嘘ではないと山健組では考えたはずである。

その工作資金として、山健組から亀谷に2億円が渡った。

しかし桑田は保釈されず、鶴城から激しく詰められる。
事件があったこの日も面談し、激しいやり取りがあったという。渡してある2億円についても話がつかず、場所を変えようという事になり、鶴城の若い者が運転する車の後部座席に二人は左右に分かれて乗り込んだが、その直後亀谷が発砲した。

事件後

平成15年(2003年)5月
最高裁は桑田兼吉の上告棄却し懲役7年の実刑が確定。
桑田は持病の悪化などで、勾留停止中だった。

同年7月
桑田は東京の飲食店で階段から落ち重傷を負い、
さらに収監が見合わされた。

平成16年(2004年)3月
桑田は東京拘置所に収監された。

平成17年(2005年)
橋本弘文は極心連合会々長として山健組から直参に昇格。
山健組は桑田の引退により、若頭に昇格していた井上邦雄が四代目組長に就任。山口組の五代目組長渡辺芳則は引退し、本家若頭に就いていた司忍が六代目組長に就任。山口組内は弘道会が主導し、山健組は沈下する事になった。

鶴城丈二を射殺した亀谷直人は、懲役20年の判決を受け服役している。繁田誠治は絶縁後の2003年11月に何者かにより神戸市内で刺殺され、後藤一男も2007年5月に同じ山健組の者により刺殺された。