夜桜銀次事件(博多事件・福岡事件)

事件

昭和37年(1962年)1月16日
三代目山口組系石井組々長・石井一郎の舎弟で通称夜桜銀次こと平尾国人が、福岡市のアパートで射殺された。

山口組では当初、地元福岡市の住吉一家系宮本組の犯行と誤認し、250人の組員を大量動員し福岡市に派遣した博多事件、福岡事件とも呼ばれる事件。

背景

昭和32年(1957年)
別府抗争において、傷害罪で指名手配を受けた平尾国人は、田岡の舎弟で神戸の白石幸吉の元に身を寄せていた。

昭和36年(1961年)10月
神戸に潜伏中に大阪で起こった明友会事件に加わった平尾は、さらに大阪府警からも追われる身となり、石井組々長・石井一郎の兄弟分で伊豆組々長・伊豆健児を頼って博多へと逃れた。

伊豆は福岡市下祇園町の博多ビルアパート301号室を平尾に用意した。

平尾が神戸にいた頃、福岡県嘉穂郡二瀬町の炭鉱経営者の松岡福利と金融業者の間を取り持ち7000万円を融資させ、融資金の一部700万円を松岡から謝礼として受け取っていた。その後も平尾は松岡から金をせびり取り松岡の反感を買った。

また平尾は、前年に地元博多の住吉一家の幹部・鷹木末雄が、子分の宮本組々長・宮本勝宅で開いた賭場で、組長の宮本勝を殴りつけ天井に向けて拳銃を発砲するなど、賭場荒らしのような行為もしており、平尾の挑発行為は地元でも知られるところであった。

鷹木末雄と宮本勝の間で平尾をどうすべきか話し合われたが、住吉一家の鷹木は平尾が山口組の鉄砲玉だと理解し、挑発行為に乗って平尾に報復しないよう宮本に命じた。このため宮本組では平尾を放置する事になっていた。

平尾の行為は伊豆の耳にも入り、伊豆は平尾に福岡から出るよう忠告したが、平尾は伊豆の忠告を無視しそのまま福岡にとどまった。

昭和37年(1962年)1月1日
平尾は松岡福利に100万円を要求し、松岡は50万円を渡したうえで、後日残りの50万円を届けると約束した。

そして夜桜銀次こと平尾国人は殺された。

経過

昭和37年(1962年)1月17日
平尾殺害の実行犯は不明のままであったが、山口組では若頭の地道行雄の指示で、若頭補佐の山本広が事態の情報収集のため福岡入りし、別府の石井も福岡に入った。

そんな中、宮本組々長・宮本勝の兄弟分である大島一家が伊豆健児の命を狙っている事が判明する。元々伊豆組は宮本組や大島一家と確執があった。地元九州の極道が、よそ者である山口組の盃を受けるとはどういう事かと伊豆組を敵対視していたのである。

実行犯不明のまま、石井組、伊豆組と宮本組、大島一家の対決機運が高まってきた。そのような時別府抗争でも仲裁に動いた大野一家総長・大野留吉が和解調停に乗り出す。

同年2月6日
大野一家総長・大野留吉の自宅で和解調停が行われ、伊豆健児、石井一郎、山本広が出席したが、双方無条件の和解には山口組としては応じられないとして話は決裂した。

調停の決裂後、その日のうちに伊豆健児、石井一郎、山本広は関西汽船「くれない丸」で神戸に戻り、翌日に地道行雄、安原政雄、山本健一らと善後策を協議した。山口組として福岡市に組員を動員すること、現地の指揮を山本健一が執ることが決まった。

同年2月7日
福岡の石井組と伊豆組を支援するため、「平尾国人の葬儀に参列する事」を名目に三宮・神戸・明石・加古川・姫路から250人の組員を、それぞれ夜行列車「霧島」、「日向」、「高千穂」に乗せて博多に向かわせた。姫路の竹中正久は弟の竹中武ら竹中組の組員を連れて、湊組の組員、渋谷組の組員とともに、9時45分発の寝台専用列車「日向」に乗って、福岡市に向かった。

同年2月8日
早朝、福岡県警は大量の警察官を動員して博多駅前で検問体制を敷き、山口組の組員らを待ち構えた。福岡県警の検問を知った山本健一は、一部の組員に持参した武器を全部持たせて、博多駅の手前で下車させた。

同日
福岡の東中洲で、伊豆組・石井組の支援に来ていた山口組系中西会の上田実を拳銃の不法所持で逮捕した。このことで福岡県警本部長・水野唯一郎は、凶器準備集合罪の適用を決め、摘発を決断した。

同日
午後6時30分、福岡県警は武装警官600人を山口組の宿泊する旅館と伊豆組事務所に向け出動させ、午後8時ごろ偶然起こった市内の停電を利用して、旅館に踏み込み凶器準備集合罪で山本健一、伊豆健児ら他の組員を逮捕した。そのような中、竹中正久は逮捕状の提示を求め、竹中組に割り当てられていた部屋に警察官を入れなかった。

同年2月9日
日付けが変わった午前1時、県警本部刑事課長の説得にも応じない竹中正久ら竹中組々員10人を強硬逮捕した。この日福岡県警は短銃11丁、実弾82発、短刀5本、8連発ライフル銃6丁、15連発カービン銃2丁、実弾200発、日本刀8本、脇差3本を押収した。山口組の逮捕者数は105人に上った。

石井一郎は警察官を振り切り逃亡したため、指名手配された。

同年2月19日
宮崎県延岡市で、石井一郎を逮捕。

同年3月15日
福岡県北九州市小倉区延命寺の旅館「潮風園」で、西宮市の松本組々長・竹田辰一の仲裁のもと、手打ち式が行われた。山口組側からは山口組舎弟頭・松本一美と菅谷組々長・菅谷政雄が出席した。

事件後

不明だった平尾国人の殺害は実行犯として、小川靖敏と平元新治が逮捕された。その後の供述で、鳥巣組々長・鳥巣信三と弟の良三を殺人教唆で逮捕した。鳥巣兄弟の供述から、平尾国人の殺害は炭鉱経営者の松岡福利に依頼されたものと判明。松岡は鳥巣兄弟に50万円で平尾の殺害を依頼し、鳥巣兄弟は5万円で小川と平元に殺害を依頼していた。

後日、田岡一雄はこの事件で3000万円が飛んだと語っている。
もともと殺害相手を誤認したうえでの大量動員だったが、山口組では一組員のためにも、総力を挙げて取り掛かるというイメージを世間に植えつけた。しかし実際には相手組織や地域性を考慮するが、必要とあれば山口組では全力で相手を叩きのめしにかかるという姿勢を世間に知らしめた事に違いはない。たとえ末端の者であっても手を出した以上は、山口組全体を相手にしなければならないと覚悟せよという強いメッセージを他団体に発した事になった。