四代目山口組の若頭といえば、一和会のヒットマンらの手によって正久とともに殺された中山勝正だが、実は四代目体制発足直前に若頭への就任を打診された人物がいる。当時の三代目山口組の若中の一人、金田三俊だ。
金田三俊は直系組織金田組を率いる直参組長で、その系譜は柳川組にある。二代目柳川組が三代目山口組を絶縁になった後、柳川組は大きく四つの団体に分割され、田岡の直参に四人が昇格している。その四団体のうちの一つが金田組である。
柳川組は殺しの軍団と呼ばれその名を全国に轟かせたが、その柳川組で四天王と呼ばれた四人がおり、そのうちの一人が金田三俊だ。
柳川組の名は二代目柳川組々長・谷川康太郎の絶縁とともにその歴史を閉じることになったが、柳川組の命脈は引き継がれ、野澤儀太郎(一会会長)、藤原定太郎(藤原会会長)、石田章六(章友会会長)、金田三俊(金田組組長)らに受け継がれた。
元金田組の組員が四代目山口組誕生直前の当時を振り返り重要な証言をしている。
田岡の死後、長期にわたって空席だった山口組のトップの座にようやく竹中正久が内定した直後、正久は金田と会食していた。その席で正久は四代目山口組体制で金田に若頭に就任するよう要請した。ところが金田はこれを固辞した。
金田が直参に昇格する前に在籍した柳川組は、在日韓国人を中心に結成された組織で金田もまた在日韓国人だった。金田が若頭への就任を固辞する理由はその国籍にあった。若頭に就任するということは組長の跡目という意味合いもある。組長の正久に万が一の事があったら跡目問題の当事者になる。その時必ず国籍の問題が出てくると言うのだ。
金田には柳川組が解散に追い込まれた苦い思い出がある。柳川組は初代の柳川次郎も二代目の谷川康太郎も在日だった。柳川組が解散に追い込まれた原因の一つに、この在日という問題が無関係ではなかった。そういう問題を考えると自分は山口組のトップには立てない。トップに立つ可能性のあるポストには就くべきではないと金田は考えていたのだ。
本来山口組本家の若頭に就くという事は、金田組にとっての利益からも歓迎すべき事のはずだが、金田は個人的な損得より山口組の将来のためにも、自分が若頭に就くべきではないと考えた。
人を蹴落とし足を引っ張ってでも自分は執行部に入りたいと目論む者もいるヤクザの世界において、この金田の所作はむしろ稀なケースである。損を承知で出来るのが任侠だと言った人がいるが、金田のこの所作こそまさに任侠道だろう。
そして正久とのこの席で金田が若頭にと推薦したのが、高知で豪友会を率いていた中山勝正だった。正久も中山のことは極道としておおいに買っており、事実四代目体制ではこの中山が若頭の座に就いた。
今現在山口組では利己的に政治的に執行部や幹部ポストが埋められていくような風潮があるという。しかし昭和の頃は組織のことを真剣に考え、自分の利益を置いて物事を考えられる本物の極道がたくさんいた。それは組織の知名度とはまた別だ。今はもう金田組の名跡もなく金田三俊の名も歴史に埋もれたかもしれないが、こういう昭和の本物の極道達が守ってきたのが山口組の看板だ。
四代目山口組では舎弟に就いていた金田は昭和が終わった平成元年に亡くなった。