一和会の手によって竹中正久四代目組長が暗殺されてから30年以上経ったが、元山口組の顧問弁護士だった山之内幸夫が、宅見勝から聞いたという竹中暗殺から五代目誕生までの当時の執行部の動きを今になって明かしている。
四代目が撃たれた日、渡辺芳則は竹中をガードして姫路まで送る気でいたが、女の所へ行くということで神戸に帰って飲んでいた。そこへ岸本才三が「親分が撃たれた」と真っ青な顔で迎えに来た。そのまま渡辺は大阪の警察病院へ急行している。
そしてその日、中山勝正若頭が運び込まれた病院で、宅見勝は中山の遺体を前に渡辺に言った。
「腹くくってくれ」
「何のことや」
「兄弟しかおらん」
宅見の野心はこうだ。渡辺を若頭に就け、そのまま五代目に就ける。竹中暗殺の日から五代目作りはスタートしていた。中山の遺体を高知まで運ぶフェリーの中で、宅見は渡辺を懸命に説得している。
85年2月5日、
中西一男が組長代行、渡辺芳則が若頭に決定したが、その過程を宅見が語っている。中西が「このままではいかん。船頭無しではとてもやっていけん。どうやろ、ワシを組長代行ということで了解してもらえんやろか」と言い出した。
宅見は中西に「あんたが労をとって五代目を決めてくれるんか。そういう意味の代行と考えてええんか」
「ワシは裏方でええ。とにかくこのままではいかんということや」
「それやったら若頭を決めてくれますか」
中西は返答に窮し五分間の休憩をとった。再開された会合で宅見と岸本が強引に渡辺を若頭に決めてしまった。宅見は中西が五代目作りの裏方でいいと言ったのを言質を取ったものと解釈した。四代目の時と同様に代行は五代目にならず、若頭が最有力というつもりだ。
宅見が入院中の田岡フミ子に報告するとフミ子は「またか。代行と若頭やったらモメるんと違うんか。なんで代行と若頭にしたんや」と言った。宅見は「姐さん大丈夫です。中西からはダメとってますがな。自分は裏方になって五代目にならん言うてます」
「今度は私は知らんよ」
「よお判ってます」
一和会との抗争を経た89年3月16日、
渡辺が山本広の引退を取り付け、19日に県警に解散届けを出した。その夜、竹中武は渡辺に電話し不平、不満、悪口の限りを渡辺に浴びせた。渡辺はこれを録音している。
その後渡辺は武に直接会って「俺は五代目をやるぞ。横浜(益田)が継ぐような話もでよるが絶対に阻止する。邪魔なもんならどんな石でも動かす。誰にも邪魔はさせへんぞ」こう宣言した。五代目には中西も立候補したが、渡辺との話し合いで中西はこれをあっさり取り下げた。ただ、中西から渡辺に一つだけ条件が出された。「宅見だけは若頭にせんといてくれ」
ところが渡辺は独断で宅見を若頭に就けた。このことで中西から異議は出なかったという。中西は一時期、武を五代目に担ごうとした事もあったが実際に動くことはなかったようである。
武はその後山口組を離脱し、山口組から攻撃される立場にまでなった。それほどまでに武は山口組の反感を買ったのだろうか。そんなことはない。武へと気持ちを寄せる人物は山口組に多く居て、多くの山口組関係者から嫌われた形跡はない。しかし若頭という権力者に嫌われた。融通が利かず政治が判らない武を宅見勝は「あんなもん」と一蹴した。
後年渡辺は「過去のことは水に流して武にはそれなりの事をしたい」と言っていたそうだ。
武の扱いについては渡辺も幾分か宅見に遠慮するところがあったのかもしれない。宅見の死後になって2001年、渡辺の発案で山口組としての竹中正久の十七回忌法要が姫路で行われた。これには武も参加している。