山波抗争

事件

平成2年(1990年)6月28日
福岡県福岡市で波谷組の岩田好晴の若い者が弘道会系西岡組舎弟の安井武美を射殺した。

背景

射殺された安井武美は西岡組の舎弟になる以前、岩田好晴から勧誘を受け波谷組へ入る事が約束となっていた。しかし安井が約束を反故にして西岡組へ入った事で、岩田はメンツを潰される形になり、以後安井を射殺する機会を窺っていた。

経過

平成2年(1990年)6月28日
安井武美が死亡した同日の夜、愛媛県宇和島市栄港町の波谷組系川田興業の事務所が銃撃され、川田興業の幹部1人が重傷。

同年6月29日午前7時45分頃
大阪市中央区東心斎橋2丁目の近鉄ビル4階の波谷組系三代目大日本正義団内水野組(水野友幸組長)の組事務所に銃弾が撃ち込まれる。

同年同日
東大阪市横沼町の波谷組系天野会(天野洋志穂会長)傘下の枡田組に銃弾が撃ち込まれる。

同年同日
大阪市東淀川区の波谷組系天野会々長天野洋志穂の自宅に銃弾が撃ち込まれる。

一般男性誤射事件の発生

平成2年(1990年)6月29日
大阪市住之江区浜口で、元NTT職員の男性が自宅の玄関先で、宅配便を装った2人組から、銃撃を受ける事件が発生した。男性は近くの病院に搬送されたが、死亡した。この男性一家は13日前に引っ越してきたばかりで、以前は波谷組の幹部が住んでいた。つまりこの男性は、以前住んでいた波谷組幹部と間違われ、射殺されたのである。

この事件が大きな社会問題となる。

その後の経過

平成2年(1990年)6月29日
大阪市西成区で波谷組に関係する金融業者の事務所に銃弾が撃ち込まれる。

同年同日
大阪市北区長柄東の波谷組系平澤組(平澤勇吉組長)幹部の自宅玄関ドアに銃弾が撃ち込まれる。

同年同日
その日の朝にも銃撃を受けていた波谷組系天野会内枡田組が再び撃ち込まれる。

同年同日
波谷組々員が出入りしている大阪市住之江区浜口の喫茶店に山口組系組員が押し入り、天井に向けて銃弾1発を発射した。

同年6月30日
大阪市北区長柄東の公団さざなみプラザの路上で、波谷組系平澤組の幹部が車から銃弾4発を撃ち込まれた。防弾チョッキによりこの幹部は無事だった。

同年同日
岡山県で波谷組も所属する西日本二十日会の会合が開かれ、波谷組と山口組の抗争について話し合われた。

本部通達

同年6月30日
山口組でも緊急幹部会を開き、一般男性誤射事件を重く見て直系組織に対して、「今回の一連の抗争事件に際し、大阪における一般市民を巻き込む不祥事の発生を見るに至り、故人の冥福を祈ると供に、一般市民に対する陳謝の意味において、今後一切の行動を中止せよ」という本部通達をファックスで送った。また同日午後9時には、「今回の不祥事による、犠牲者の冥福を祈るため、喪が明けるまで、全山口組参加団体は、喜び事行事を全面中止するように。右厳守して下さい」という文面のファックスが、再び直系団体に宛てて送られている。

同年7月1日
波谷組系平澤組々員が拉致され、大阪府箕面の山中で平澤勇吉組長の行方を尋問されたが、組員は平澤組長の行方を知らず、翌日箕面市で解放された。

同年7月2日午前1時ごろ
大阪市東成区の深夜喫茶店で、女性と食事中だった波谷組系平澤組幹部が拉致された。平澤組幹部はマンションに監禁され、平澤組長の行方を尋問されたが、返答を拒否した。

同年同日
大阪市中央区日本橋1丁目で、波谷組系天野会々長天野洋志穂の経営する不動産会社に銃弾が撃ち込まれた。

同年同日午後11時
大阪府高槻市の淀川堤防で、東成区で拉致された平澤組幹部が、足と腕を銃撃され放置される。平澤組幹部は路上に這い上がり、車で通りがかった女性に発見された。

同年7月3日
大阪市住之江区で誤射されて亡くなった男性の葬儀が行われた。宅見勝の意を受けた山之内幸夫の弁護士事務所の事務員が、山之内幸夫の代理で葬儀に出席し、香典を受付に置いて帰った。男性の遺族が香典を発見し、山之内幸夫に返送した。

同年同日
大阪市西成区の波谷組系三代目大日本正義団組員の自宅に銃弾が撃ち込まれた。

二度目の本部通達

同年同日
山口組本部は、直系組織に再びファックスで、抗争中止を通達した。

同年7月4日
大阪府門真市にある波谷組系平澤組々長平澤勇吉の知人が経営する外車販売会社にトラックが突っ込み、展示中のベンツ1台を破損させた。

同年7月5日
山口組定例組長会で若頭の宅見勝は、抗争中止命令に従っていないとして、直系組長全員を強く叱責した。宅見は改めて「傘下の者たちに抗争中止を徹底させよ」と指示した。

同年同日
倉本組(倉本広文組長)組員の織田義功が、平成2年(1990年)6月30日に公団さざなみプラザの路上で波谷組系平澤組幹部を銃撃したとして、警察に出頭し逮捕された。

同年7月15日
東大阪市横沼町の波谷組系天野会内枡田組のベランダに、長さ4メートルの板をかけてよじ登り、枡田組事務所内に銃弾を撃ち込んだ。

同年12月3日
大阪市天王寺区のビル7階にあった波谷組系天野会事務所が銃撃される。

同年同日
倉本組系天道会の19歳の組員が、大阪市西成区にある波谷組系三代目大日本正義団事務所に、路面電車の中から拳銃を撃ち込んだ。発砲後、路面電車から飛び降りて足を骨折したが、そのまま待機させていた天道会組員の車で逃走した。

同日夜
大阪府警は逃走を助けた倉本組系天道会組員を逮捕した。
その後警察は、路面電車の中から発砲した少年組員を病院で逮捕した。

同年12月7日
波谷組の岩田好晴が、拳銃で自分の頭を撃ち抜き死亡した。岩田は抗争の原因を自分が作ってしまった事を思いつめ、半ば自暴自棄になった挙句、ロシアンルーレットを繰り返した上での事故だったと言われている。

同年12月11日
波谷守之は、倍野区播磨町の自宅に波谷組幹部を集めて、四代目共政会の沖本勲会長に手打ちを依頼する事と、自身はヤクザからは引退しないが皆は波谷組から脱退するよう促した。

この後、沖本勲(四代目共政会々長)と山口組若頭補佐の桑田兼吉(三代目山健組々長)が協議し、山口組幹部会に波谷組の「波谷守之は、ヤクザから引退しないが、若衆を全員手放す」という条件を伝えた。当事者である司忍(弘道会々長)も了承し、手打ちに至った。

同年12月24日
山口組本部はファックスで、全直系組織に抗争終結を通達した。

同年12月27日
波谷守之が名古屋市の弘道会本部を訪れ、司忍に謝罪した。

事件後

山波抗争では、大阪市住之江区で起きた、一般人を誤って射殺するという事件が、当時大きな社会問題になり暴力団に対する風潮も大きく変化した。使用者責任による損害賠償や暴対法改正にも影響した。当初若頭の宅見勝は、自分が葬儀に参列できるよう大阪府警に取次ぎを依頼したが、府警や遺族はこれを拒否している。

また、山口組本部からはこの誤射殺を受けて、抗争中止命令を参加団体に通達したが、後になってこの中止命令の解除をどうするかで、苦慮する事になる。
つまり抗争再開を通達すれば、それは教唆に当たるのではないかと言う事である。結局その後、この抗争について本部からの通達は、同年12月24日に全国の直系組織に、抗争終結をファックスしたのみだった。

またファックスに関しては、同年7月6日に大阪府警が行った宅見組、英組、倉本組、一会などの関係先63ヶ所に対する家宅捜索で、「山口組系黒誠会幹部の息子で、波谷組平澤組組員を襲わないように」という旨の通達が発見されている。

平成3年(1991年)
波谷組波谷守之組長は西日本二十日会から脱退した。
同年、西日本二十日会は解散した。

波谷組は、かつて三代目山口組系菅谷組の菅谷政雄組長の舎弟として、山口組に属する組織だった。しかし昭和52年(1977年)に菅谷政雄が絶縁処分を受けた時に、そのまま菅谷に付いて山口組を出ている。昭和56年(1981年)に菅谷の引退後は独立組織として歩み、波谷守之は「最後の博徒」と呼ばれ、全国の博徒から一目置かれる存在だった。

集中的に攻撃を受けた三代目大日本正義団、平澤組、天野会について。
三代目大日本正義団(石川明会長)は、この当時波谷組の若頭に就いており、かつて山口組三代目の田岡組長を京都のベラミで狙撃した鳴海清が所属していた。平澤組の平澤勇吉組長もその大日本正義団の出身である。天野会(天野洋志穂会長)は菅谷組の出身で多くの事業を持ち、波谷組の中でも資金力が豊富とされていた。

抗争後、石川明は大日本正義団を解散し、初代健心会の相談役へ。
平澤勇吉は三代目山健組内太田興業へ。
天野洋志穂は初代宅見組を経て、その後五代目山口組直参へ。

平成6年(1994年)11月2日
波谷守之は、阿倍野区播磨町の自宅で頭を拳銃で撃ち抜き自殺した。