札幌事件

事件

平成2年(1990年)1月4日
吹雪の中、北海道札幌市の誠友会本部事務所から運転手と2人で自宅に向かう途中、北海道神宮の路上で信号で止まっていた車内にいた五代目山口組初代誠友会・石間春夫会長が、三代目共政会系島上組傘下の稲田組系右翼団体維新天誅会の2人組に射殺された。

背景

前年の12月、誠友会の石間春夫会長は維新天誅会の訪問を受け、お歳暮を受け取った。維新天誅会は稲田鉄夫を代表に札幌市を拠点に右翼活動をする団体で、石間はこの事は認めていた。しかしこの時、お歳暮の熨斗に共政会の代紋があり、稲田鉄夫が稲田組として共政会傘下に入っていた事を初めて知る。石間はヤクザの代紋を上げるのなら、それは話が違うと突き返した。

これより更に4年前にも、誠友会が維新天誅会事務所に銃弾を撃ち込んだり、誠友会の者が銃撃を受ける抗争事件が起きていた。この時の和解の席上、維新天誅会は右翼活動に専念する約束が取り交わされていた。石間が激怒するにも理由があった訳である。

経過

同年1月7日
北海道警が札幌市内での葬儀を阻止したため、夕張郡長沼町の良昭寺で、石間春夫の葬儀が営まれた。

同年2月2日
共政会は、稲田組(稲田鉄夫)を絶縁処分にし、稲田組の上部団体島上組(島上守男)を破門にした。

同年2月4日
札幌市中央区の稲田鉄夫所有のビルに誠友会川口組々員の乗ったパワーショベルが突っ込んだ。

同年2月5日
東京で、山口組の副本部長・野上哲男(二代目吉川組組長)と共政会幹部が初めての和解交渉。

同年2月12日
再び札幌市中央区の稲田鉄夫所有のビルに誠友会組員3人が、タイヤショベル、パワーショベル、乗用車に分乗し突入。警備に当たっていた警察の目の前で銃弾を撃ち込んだ。

同年2月23日
広島市で、野上哲男と共政会幹部が2回目の和解交渉。

同年2月24日
すでに破門となっていた広島市の島上組の事務所近くの駐車場で、組員の松村和美が銃撃され重傷。

同年2月27日
広島市の島上組事務所に、銃弾が撃ち込まれた。山口組系譲心会組員が、その場で警察官に逮捕された。

同年同日
神戸市で、野上哲男と共政会幹部が3回目の和解交渉。

同年3月1日
札幌市中央区の稲田鉄夫所有のビルに三度目のパワーショベル突入。

同年同日
札幌市内で稲田組々員がワゴン車で移動中、誠友会の車に発見され追走された。稲田組々員は逃走を試みるも電柱に衝突し逃げ切れず、誠友会組員に拳銃で頭部を撃たれ、重傷。

同年3月2日
野上哲男と共政会幹部が4回目の和解交渉。

同年3月3日
山口組の執行部会で、執行部全員が共政会との和解を了承した。

同年3月4日
共政会相談役・門広、共政会副会長・藪内威佐男、共政会副会長・片山薫、共政会理事長・沖本勲ら4人が山口組本部を訪れ、和解が正式に成立した。

抗争後

山口組の直系組長が他団体の者に殺されるというのは、山一抗争を除けば前代未聞の大事件であったため、山口組と共政会との全面戦争を煽り立てるかのようなマスコミ報道も当初はあった。しかし事件直後から五代目組長の渡辺芳則の名前で報復禁止令が出されるなど、ある種異質な事件であった。

共政会も即刻関係者を処分し、射殺から10日後には双方和解交渉に入っている。

これは同時期に起こった八王子抗争、同年に起こった山波抗争と比較しても明らかに違った。八王子抗争、山波抗争は末端組員の事件にも関わらず徹底的に相手組織を攻撃した。しかしこの札幌事件に関しては、親分を殺された誠友会は激しく攻撃を繰り返したものの、山口組も共政会も双方始めから歩み寄りの姿勢を見せている。

この事件をマスコミは山口組の平和外交路線と伝えたが、少し意味合いは違うと思う。山口組としての抗争を判断するのは、若頭・宅見勝を中心とする執行部である。その執行部は抗争については、個別に判断し事件を発展させるかどうかは、相手組織を含めてその地域的な事も考慮した上で判断するようになったのだろう。

ヤクザは地位が上がるほど命の重みも上がる。そのため元来は誰が殺られたのか?が事件についても重みを持ち、それに相当するダメージを相手に与える事が至上命題となった筈である。
しかしこの頃からは、どこで起こったのか?相手組織はどこなのか?という背景、事情が吟味され合理的に戦争と平和を使い分けるようになった。

同年5月14日
五代目山口組若頭補佐・桑田兼吉(三代目山健組々長)と共政会理事長・沖本勲との間で兄弟盃が交わされた。

同年9月
沖本勲が四代目共政会々長に就任した。