出生から渡世入り
昭和12年(1937年)10月25日
高知県香美郡物部村(後の香美市)で生まれる。
18歳の頃、四国の高知にある中井組の若頭をしていた大黒麗夫の若い者になり渡世入りした。
中山は高知市内で白タク営業を統括し資金源とし、豪友会の前身となる「自動車愛好会」を名乗った。
昭和32年(1957年)
中井組々長の中井啓一が高知市議会議員の選挙に出馬。
中井組若頭の大黒麗夫と、同じ高知市の寺田組の寺田貢組長が選挙活動を支え当選を果たす。
昭和33年(1958年)
中井啓一が神戸の三代目山口組・田岡一雄組長から舎弟盃を受け、中井組は山口組の直系組織となる。
昭和36年(1961年)
中井啓一が二期目の再選を目指し市議会議員選挙に出馬するも、前回中井の選挙参謀だった寺田組の寺田貢組長が対抗馬として立候補した。
この結果、中井も寺田も両方落選となった。
中井組若頭の大黒麗夫は、落選の責任を取って中井組若頭を辞任した。
選挙の後、中山勝正率いる豪友会が寺田組の賭場に殴り込み、この事件で豪友会組員1人が寺田組の者に射殺された。
この頃、自動車愛好会を豪友会と改めた。
昭和36年(1961年)10月
中山勝正は中井組の若頭に就任した。
若くして山口組直参へ
昭和47年(1972年)9月6日
三代目山口組の田岡一雄組長から親子盃を受け、山口組の直参に昇格する。
この頃から高知では中山率いる豪友会と侠道会(森田幸吉)は対立抗争を繰り返していく。
昭和48年(1973年)
中山の兄弟分である福島県の木村茂夫(五代目角定一家総長)が田岡一雄から親子盃を受け、山口組に加入した。
昭和52年(1977年)12月
加茂田重政、細田利明、正路正雄と共に山口組本家の若頭補佐に就任する。
翌昭和53年(1978年)
愛媛県今治市の山口組系二代目森川組(矢嶋長次組長)と侠道会(森田幸吉会長)の間に抗争が起こったが、
最終的に中山が矢嶋と森田の間に入り、両者を和解させた。
昭和56年(1981年)
三代目山口組を絶縁処分となりながらも、引退を拒否し組も解散していなかった菅谷政雄の問題について、他の執行部と連携し、菅谷組舎弟頭の浅野二郎や菅谷組若頭補佐の生島久治らに交渉し、菅谷に引退を決意させ、菅谷問題の解決に尽力した。
中山は35歳で直参に昇格し、まだ年齢も若かったが極道としての評価は高く、他団体の大物からも一目置かれていた。単純に武力だけでなく、極道の筋を重んじ、人事を尽くした交渉力も高く評価され、山本健一や竹中正久らからも信頼された。
昭和56年(1981年)7月23日
田岡一雄が急性心不全により死去。
四代目山口組若頭へ
昭和57年(1982年)2月4日
田岡の跡目として四代目に内定していた山本健一が死去。
当面は山本広を組長代行とし、竹中正久を若頭にした暫定体制が敷かれる事になった。当初竹中は若頭への就任を断り、代わりに中山を推薦している。この事からもいかに竹中が極道としての中山を高く買っていたかが分る。
そして長引く暫定体制の期間中に、四代目候補として山本広を推すグループと、竹中正久を推すグループとに組内が分かれていく事になる。
中山もこの頃、本部長の小田秀臣より四代目組長に推薦されているが、中山はこの推薦を断り、中山自身はそれまでと変わらず竹中を支持した。中山に断られた小田はその後山本広を支持した。
これらのエピソードから見えて来るのは、中山勝正が極道としていかに高い評価を受けて来たかという事である。
またこの頃の、極道として高い評価を受けた者の共通点として、皆謙虚だったという点がある。少しでも上のポストへという欲望どころか、安易に御輿に乗る事はせず、自分のような者では・・・という遠慮が見られる。それでいてヤクザとしての分別をわきまえ、自分には厳しく極道の道を全うしようとする。その極道としての所作が他者からの信頼を集め、結果的に支持される事になる。
一方中山が率いる豪友会は同じ高知の中井組と微妙な関係にあった。中山は元々中井組で若頭を務め、その後直参に取り立てられたという経緯がある。言ってみれば中山にとって中井は元の親分に当たる人物で、その中井組と悶着を起こすのは避けたい。しかし勢力を伸ばし勢いに乗る豪友会の若い者は、中井組を軽視し始めていた。
昭和59年(1984年)2月15日
高知市追手筋のバーで中井啓一(中井組々長)が組員数人を連れ酒を飲んでいた。そこへ豪友会幹部の池本審、岸本静於が現われ、中井が何事か小言を言った事で喧嘩になり、岸本が中井組の組員をビール瓶で殴り大怪我を負わせた。
その日のうちに中井組系弘田組は豪友会本部に銃弾を撃ち込んだが、事件は竹中正久らがすぐに高知入りし和解した。
昭和59年(1984年)6月5日
竹中正久の四代目組長就任が決定した。
竹中の四代目就任に反対する直系組長らは山口組脱退の意向を示し、山本広を会長に据えて一和会を結成した。
四代目山口組と一和会それぞれの顔ぶれを比較すると、四代目山口組には若手といわれる直系組長達が集まり、一和会には古参と呼ばれる比較的キャリアの長い組長達が加わった。そして組員総数でも一和会側が山口組を上回った。
中山の元の親分中井啓一は一和会最高顧問に就任し、同じ高知にありながらも袂を分かつ事になった。
同年6月23日
中山勝正は四代目山口組の若頭に就任した。
同年7月10日
山口組四代目継承式が徳島で執り行われた。
同年8月23日
山口組から実質的に一和会への絶縁を表明する「義絶状」が友誼団体に送られた。これは竹中組長の意思ではなく、執行部の意向で出されたと言われる。竹中は自分と盃関係のない一和会については放置する意向だったが、宅見勝の発案により執行部で決定し、最終的に竹中組長の了承を得たとされている。
出された側の一和会は激怒し両組の対立は深刻なものとなった。一和会側では悟道連合会々長の石川裕雄を中心に、竹中正久の暗殺を計画していく。
中山勝正の最後の日
竹中組長は四代目就任後も過剰なガードを極端に嫌い、常に少人数での行動を好んだ。組長秘書としてガードに責任を持つ石川 尚(名神会)、南 力(南組)の二人はこの事を執行部の一員である宅見勝に相談し、宅見はガードについて若頭の中山にもっとガードを強化すべきだと進言し、特に竹中の愛人が住む江坂のマンションについての警備を問題とした。相談を受け中山は、一度自分の目で現地を確認しようと考えていた。
昭和60年(1985年)1月26日
この日四代目組長竹中正久は、午前中に神戸の山口組本部に隣接する新本家上棟式の後、午後には京都府八幡市に入院する田岡フミ子を見舞った。一行は夕方大阪ミナミで食事をしたが、その後中山は他の者達を帰らせた。この時点で正久に付いていたのは、若頭の中山勝正と南力、そして運転手の南組々員のみになる。ただしこの時点では、過剰な警護を嫌う正久に気付かれぬよう中山の手配した豪友会の組員が離れてガードをしていた。
その後一行は堂島のクラブで酒を飲み、午後9時前に堂島のクラブを出て南組の車に乗り込んだ。助手席には南、後部座席には正久と中山が乗り込んだ。4人のみで一台の車で吹田市江坂のマンションに向かった。中山が江坂のマンションに向かうのは、この日が初めてだった。
マンションに到着し、正久、中山、南の三人はエントランスを抜けエレベーターホールへと消えていった。運転手が車をバックさせていると、立て続けに銃声が鳴り、続けざまに青白い閃光が走った。竹中組長は銃弾を受けながらも自力で車に戻ったが、中山と南はその場に昏倒した。
南は背中のベルト部に拳銃を差し込んでいたが、応戦する間もなかった。
中山は三発被弾しており一発目は左目下から入り頭部で止まり、二発目は右胸を貫き、三発目は左背中から入り骨盤で止まっていた。
中山は救急車で千里救命救急センターに9時35分に運び込まれたが、日付けが変わった27日午前1時7分、脳挫傷と頭蓋底骨折で死亡が確認された。
山口組は組長の竹中正久、若頭の中山勝正、直参の南力の三人を同時に失った。
同年1月30日
中山勝正の密葬が高知市長尾山町で行われた。
葬儀の後のエピソード
葬儀の後、中山家の遺族は並べきれないほど集まったたくさんの供物を町の老人ホームへ送る事にした。ホームの職員は、相手がヤクザなので問題になっては困ると思い、町長に相談した。町長は警察へ相談したが、いい返事を得られなかった。そこで粋な町長は機転を利かせて今度は病院の院長へ相談した。「葬式の供物の菓子や果物を、ホームの年寄りに食べさせたら害があるかのう?」病院の院長は「供物であろうと町で買うたもんであろうと、新鮮な物なら害はない」と答えた。町長は職員に「医者に聞いたところ害はないいうきに受け取ったと、ワシが責任持って言いくるめるきに、お前は心配せんで受け取れ」と職員に言った。