異国での日本人拘束事件の解決にヤクザが尽力した話

昭和60年(1985年)1月
MNLFというイスラム系反政府ゲリラ「モロ民族解放戦線」にフィリピンのホロ島で、日本人のフリーカメラマン、石川重弘氏が拘束される事件が起きた。

ゲリラ側は日本大使館にマシンガン100丁と30万ドル(7000万円)を要求してきた。日本政府は為す術なく、外務省も石川重弘氏の実家へ「死んだと思われたし」という考えられない通告までしていた。当時の外務大臣は、安倍首相の父にあたる安倍晋太郎だが、日本政府は、事実上事件を放置し日本人を見捨てた。

拘束されてから数か月後、この話が元三代目山口組の直系組長・黒沢明に持ち込まれた。黒沢を通して更に話は、民族派新右翼の代表的な論客として知られた野村秋介氏に持ち込まれた。野村氏は激しく政府を批判したが、政府批判だけでなく自らも具体的な救出作戦に乗り出した。野村は遠藤誠弁護士、黒沢明らと協力し、日本船舶振興会の笹川良一も動かして、思想や立場も超えて協力し合う事で、ゲリラ側との接触に成功する。

なぜ接触する事が出来たのか?

当時日本のヤクザはフィリピンの裏社会とは、拳銃の密輸などで密接な関係があった。これらにヤクザ独自が持つパイプが生かされた事は間違いないだろう。

交渉を重ねていく中で野村は、金と武器を要求するゲリラ側に対して、民族解放という立派な思想を掲げる組織なら、大金を目的とするなと諭し、武器については、日本にはマシンガンは一丁もないと断った。野村の粘り強い交渉により、身代金が3000万円という事でまとまった。

しかし、この3000万円の捻出に行き詰る。

そこで助け舟を出したのが、当時四代目山口組直系の後藤組組長・後藤忠政だった。かねてから野村と後藤は交流があり、野村から相談を受けた後藤は、
「分りました。野村さん3000万出しましょう」
と金銭の負担を引き受けた。

これで事件が解決した。

昭和61年(1986年)3月
最終的に、3000万円分の医療物資支援という事で、石川重弘氏は1年2か月ぶりに解放された。日本政府が見捨てた日本人を、現役ヤクザや元ヤクザが協力し、見事救出した。

※黒沢明(黒澤明)
1959年6月
柳川次郎(柳川組)が初めて山口組へ加入する時、山口組若頭の地道行雄の舎弟として加入した。その時柳川組から福田留吉・園幸義・黒沢明が地道の若衆に直った。その後昭和44年(1969年)に地道が死去すると二代目地道組は認められず、その地盤は若頭の佐々木道雄が佐々木組として引継ぎ、田岡の直参に直った。間もなく黒沢明は、佐々木組の舎弟から田岡の直参になり、その外交手腕から山口組のキッシンジャーと呼ばれた。その後山口組と一和会に分裂の際、黒沢組を解散し引退した。現役当時は若手直参の中でも切れ者として知られ、引退しなければ後藤忠政や宅見勝以上の人物になっていただろうと評価が高い。

解散後の黒沢組は、大阪の黒誠会と静岡の美尾組に分割され山口組に残った。

グリコ森永事件では、事件の主犯ではないかという疑惑があった。
関西の裏社会での人脈や統率力、過去にグリコを恐喝しようとした過去、グリコの関係者から3億円の入金があった事、他にも多くの条件が重なり、警察は黒沢の名前をもじりブラック、「B作戦」として、黒沢を狙った事がある。

警察はマスコミの目を避け、任意で大阪のホテルの一室で、二日間に渡り執拗な調べを行ったが、黒沢は「現役時代には、あちこちに金を貸していたから誰に貸したか覚えていない。それらが返済に振り込んでくる事がある」と答え、警察は3億円の根拠を立証できなかった。しかも3億円の振込人とされる企業関係者の供述も得られず「B作戦」は頓挫した。

今だにあれだけの事件を影で指揮し、そして黙らせる事ができるのは、黒沢明以外にいないと信じる者もいる。