三代目山口組内二代目柳川組は昭和44年4月に解散した。
解散理由として伝えられているのは、大きく分けて二説がある。ある在日韓国人少女による柳川組を非難した新聞への投書だったという説と、柳川や谷川らに対して、当局が強制送還を持ち出し解散を迫ったためだったとする説がある。
この二つの説については、後年の柳川や谷川ら本人の口からは語られてはいない。
強制送還説の根拠としてこの頃、柳川組内の有力組織神田組が解散しており、この神田の場合が強制送還と引き換えにした解散だった。この神田組の解散で、在日韓国人を中心とした柳川組は、柳川組本体まとめて強制送還されるのではないかと噂になっていた。
しかし強制送還にも対抗手段がないわけでもなく、その一点だけで解散の理由となるには疑問が残る。もちろん警察が主導して柳川組を解散に追い込んだ事は間違いない事実だろう。
当時柳川次郎は名古屋刑務所に服役中。一方谷川は大阪刑務所に服役中だった。警察にとっても直接二人を攻め立てられる環境になかった。そこで突如同時期に大阪府警は、他の柳川組関連の事件の事情聴取という名目で柳川は大阪の旭署、谷川は同じく大阪の田辺署に移送された。
柳川はすでに引退し、跡目を谷川に譲っていたが、この谷川の説得には先代にあたる柳川次郎を先に説得する必要があった。
ここで警察はこれまでの捜査で積み上げてきた柳川組のごく一部の者しか知らないような極秘事項や柳川組を支援してきた者の情報を柳川本人の前に示した。これは柳川を落胆させるに十分な内容だったようである。この年、柳川組だけで逮捕者を150人以上も出しており、幹部クラスも軒並み刑務所へ送られていた。警察は強硬な切り崩しだけでなく、旭署で何らかの「潮時」を柳川本人に悟らせたのでははないだろうか・・・
二次団体でありながら単独で警視庁指定の全国広域5大暴力団に指定され、集中的な取締りも受け追い詰められているのも事実だった。当時の警察はヤクザの壊滅そのものより「名称」の消滅に力を入れており、「柳川組」の看板降ろしに懸命だった。そういった時勢も十分に分っていた。
そしてその柳川を田辺署にいる二代目組長の谷川に引き合わせ、柳川から谷川に組の解散を説得させることになった。谷川も簡単には同意しなかった。この時柳川は谷川にこう言ったという。「ワシらの恩になってる人まで巻き添えにしてしまう。余計な事を喋るヤツがでてきて、柳川組が残る限りは追及される。柳川組がなくなりゃ、済む」谷川の説得には丸2日かかっている。
解散に同意したものの、二代目柳川組は三代目山口組の直系組織であり、谷川は組長の田岡一雄の若中である。解散について田岡組長へ御伺いをたてることになり手紙を山口組の者に託した。これも不運だった。その手紙はその者の勝手な判断で田岡組長には届けられなかった。
この事が柳川次郎と谷川康太郎に最も重い処分をもたらした。本家に相談なく勝手に組を解散したとして絶縁処分となる。
晩年の谷川はこう語っている。
「解散のことならしゃあないね。食うだけは食えるし、人を助けるのは、これは義理やし、別に財産って、あってものうてもええしなあ」
柳川組の解散により交友する者の中に助かる人間がいたのは事実のようである。
谷川の交友関係は多岐に渡り、食堂の親父から弁護士、新聞記者、政治関係、企業経営者と庶民的な付き合いを大切にする人物だったという。