山一分裂時 一和会行きを拒否した司忍

山口組六代目組長司忍。
日本最大勢力山口組のトップに君臨する人物として、極道界に知られている。2005年に六代目を継承するまで名古屋の弘道会を率いてきたが、司忍の名が初めて全国的に知られたのは四代目山口組が発足した時ではないだろうか。

1984年に四代目山口組が発足した時、弘道会会長として竹中正久から若中の盃を受けた。この時、司忍は42歳。四代目山口組直参となった。
承知のようにこの時、それまでの山口組が竹中正久の山口組と山本広の一和会とに分裂した。時代を遡ってみるとこの時に司忍のターニングポイントが見えてくる。

1970年代
三代目山口組田岡一雄組長の頃、田岡の若中弘田武志率いる弘田組が名古屋にあった。その弘田組の若中に司忍がいた。この頃の愛知県下には山口組系以外に様々な組織があり、山口組系の弘田組は一地方組織にすぎず、他団体と衝突を繰り返しながら地盤を築く、山口組の一直参組織だった。このような名古屋の弘田組内で副組長や若頭を歴任し弘田組としての抗争においても陣頭に立ったのが司忍である。その弘田組の司忍にとって極道人生最大の出来事が起ころうとしていた。

1980年代に入り山口組の三代目組長田岡一雄が亡くなった。

この頃、司忍の親分弘田武志は、田岡の後継者とされる山本健一と関係も近く、山本が四代目を継いだ後も当然山口組に参加するはずだった。その山本健一が四代目を継ぐ事なく田岡の後を追うように亡くなった。

1984年いよいよ空白だった四代目組長の座を巡り竹中正久と山本広が対立し、竹中の四代目で決着が見え始めた。司忍の親分弘田は山本広支持を表明し、組が割れるなら山本広に付いて出ると明言していた。

このまま司忍は、一和会系弘田組の司となるはずだった。

山本健一亡き後、弘田武志は山本広とも関係が近かった。逆に言うと地理的な関係からか姫路の竹中とは親交が薄かったのかも知れない。いずれにしろ山本健一亡き後筆頭の頭補佐だった山本広が三代目山口組の組長代行となっており、過去の序列だけを見れば山本広にも分があり、また山本広を支持する重鎮が多かった。佐々木道雄や加茂田重政、松本勝美に中井啓一、溝橋正夫、白神英雄といった当時全国的に名の売れた幹部クラスは山本広を支持する者が多かった。

司の親分弘田が年齢的にも近い山本広を支持するのも自然な事だった。

いよいよ分裂の時、司忍は親分弘田武志を懸命に説得した。

ヤクザの世界では親が黒いと言えば白い物でも黒くなるのが当たり前とされる。しかし親分にヘタを売らせないのも子の務めでもある。ましてや弘田組のために長い懲役にも行った功労者司忍の意見に親分の弘田も耳を傾けたはずである。他の弘田組舎弟や幹部の意見にも弘田武志は聞く耳を持ったのだろう。弘田にとっても山本広への義理と自身の若衆との間で計り知れない苦悩があったに違いない。ついに弘田組は一和会に加わらなかった。四代目山口組にも加わらず弘田武志は組を解散しヤクザを引退した。

山本広から竹中正久へと寝返る事なく引退の道を選んだ事で弘田武志の名を汚す事もなかった。

そして弘田組の者は司忍を会長に新たに弘道会を結成し、会長の司は四代目山口組の盃を受けた。弘田組の「弘」の字とその道を行く「道」の字から「弘道会」と組織したのは司忍の親分弘田への思いがあっての事だろう。

それから二十年後、司忍が五代目山口組で若頭に就任した時「弘田組」を名乗った。

かつての親分弘田武志があって今の自分がある。
そういう気持ちが司忍の中に今もあるのではないだろうか。

あの時そのまま弘田組が一和会に行っていれば、当然今の司忍も弘道会もなかったはずである。勝てば官軍ではあるが、当時の一和会へ行った若手の中には司忍のようにその後大成するはずだった極道が何人も居たのではないだろうか。