2014年 夏の怪文書

2014年の夏、密かに話題となった「怪文書」がある。A4の用紙2枚に綴られていて、中野会会長襲撃事件や宅見勝若頭暗殺事件についても触れられている。内容の真偽は不明だが公になっている内容は以下の通りである。

現在の執行部、幹部の醜態、悪業の数々は目を覆うばかりである。内部の噂話、悪口はするな、他団体に関しての話題も内政干渉にあたるなどと、さも仁侠界の伝統、掟を尊重するかのような態度を偽装しているが、所詮は自己欺瞞と無能の所産である。
逆に山口組の現状を組全体や他団体に知らしめれば、自身の信頼を失墜せしめ山口組自体が崩壊し、引いては自分たちの生命の危機さえ感じているからである
組内組織に京都市内で会津小鉄会を使嗾して拳銃襲撃させた事件は、現在の司、高山の正体を如実にあらわしている。つまり、全てが虚言と裏切りで成立っていると断言できる。所謂、名古屋方式である。

現在の山口組体制はそのことが普通の事として罷まかり通る異常な世界なのである。一旦、自分達が窮地に陥ると、山口組は互いに傷を舐めあって助けあわなければならないなどと言いつつ、その裏では自分達の利に合致しないことには、どんなに身体を張って尽くした人間に対しても平気で裏切り、追い詰め追放する。この事は、司、高山という人物が、日本古来の渡世の掟や信義を知らない事に原因が求められる

ここまで山口組を衰退させ仁侠界全体を落としめた司、高山両名の陰湿な姦計を全て述べるには紙数が足りない。中野太郎会長襲撃事件と宅見若頭殺害事件から説き起こすことにする。

当時の中野会長の言動は先鋭的であり、宅見若頭、司弘道会会長、古川組長、桑田山健組長、滝沢組長など殆どの山口組幹部は苦々しく、又、恐怖心さえ感じていた。桑田組長と盃のあった、会津小鉄会の図越会長も違った状況であるが恐怖を覚えていた。そこで、当時、お人好しで少々軽いとの評のあった古川組長に司が接近し、嗾け、桑田組長、宅見若頭に中野会長殺害を持ちかけたのである。

何故、司はこれ程までに中野殺害に固執したのか。
中野会長と司はともに大分県の出身である。司の出自、来歴について熟知していたし、とくに集団就職以後の大阪での履歴については詳細に把握しており、司にとって中野会長の存在は一生頭の上がらない目の上のタンコブだったのである。しかし、組内部での実行は動揺と不信感が増幅し組織がもたないとの判断から、会津小鉄会に白羽の矢を立てたのである。

会津小鉄会は何故この計画に乗ったのか。
客観的には図越会長が桑田会長との日常会話のなかから山口組内部の状況を熟知していたこと、即ち、渡辺五代目が意志薄弱で主体性に乏しく、執行部に対して強権的な発言が出来ない事、実行後の和解も容易だと踏んだからである。更に、会津小鉄会が最終決断を下した最大の理由は、図越会長が中野会長から多額の金の無心をされ断りきれずにいた事実である。併あわせて、中野会長が京都に住居を移したことと相俟って、将来に対する不安と恐怖心が渦巻いて、永久に無心が続くならばと乾坤一擲の勝負にでたのである。

この中野襲撃に関して、襲撃を受けた現場の理髪店の窓ガラスが防弾に改造されていた事実がある。これは会津小鉄の襲撃を知る若衆がひとり抜け、中野会の組員となり襲撃計画を通報し迎撃体制を整えていたのである。この時、会津から桑田組長に襲撃計画が漏れているから実行を延期したいと再三にわたって申し入れが行われたが、古川組長や司の姿勢は強硬で、返って日頃の軟弱振りを糾弾され実行せざるを得なかったのである。

この中野会長襲撃は失敗に終わり、会津小鉄側の形ばかりの詫びを渡辺五代目が簡単に受け入れ、その根回しを宅見若頭が率先して行ったことから中野会長の疑念は深まっていく。以前、渡辺五代目の処遇について宅見若頭からトラック一杯の現金を中野会長に届けるから一任してくれとの申し出が為されており、其の事と相俟って宅見殺害への決意が深まっていく。宅見襲撃については、中野会長は渡辺五代目の同意を得てから実行しており、事件後の中野処分について二転三転する中、執行部が五代目を責め立て結局は絶縁となったのである。

以上がその怪文書の内容である。