山口組の四代目に竹中正久が就いたのは、田岡フミ子の強い推挙があっての事だとされている。当初フミ子は、田岡一雄に遺言はないと言い切っていた。そこから徐々にニュアンスが変化し「今は言う時期じゃない」とマスコミに答えた事もある。そこから最終的にフミ子は、夫の田岡には四代目はヤマケン(山本健一)に、カシラには竹中を、という遺志がありそこから解釈してヤマケン亡き後は、竹中を当代へという言い回しを使った。
ともかく、“田岡の遺志による文子の指名”という事で、決定した四代目だった。
以上が四代目決定のいきさつとして世間に知られる流れであるが、四代目襲名直後に作家の正延哲士氏のインタビューに答えた時の竹中正久の発言が残っている。
全文をそのまま引用する。
「わし、ヤマヒロ(山本広)と話したことがあるぜぇ。四代目についてや。前のオヤジ(田岡)が撃たれた後、大阪の喧嘩になって、ぎょうさん刑務所へいってるやろう。それから、若い者がよその組とマチガイ(喧嘩)起こすわなぁ。そういう若い者の面倒をもっと見たらなあかん。そういう事をちゃんとするようになったら、わしみんなに(山本広を四代目にするよう)頼んだる、言うたんや。若い者が喧嘩起こしたらやなぁ、すうっと自分が飛んでいってや、話しつけたるとか、そうやって若い者のために体を張るいうんか、それをせなあかん言うたんや。ま、条件つけたいうかいなぁ。そういう話をしたことはあったぜぇ」
「それで・・・」
「一年たっても変わらんかったわな。それで、姐さんから、ヤマヒロに協力したって欲しいいう話があったとき、わしは協力できんいうて断った」
以上の竹中自身の証言によると、意外な事にフミ子が一度は、山本広を四代目へと考え、それを竹中へ話していたという事が分かる。この時竹中がフミ子に賛成していたら問題なく四代目はヤマヒロに決まっていた可能性が高い。しかし竹中はフミ子の提案に反対した。
また竹中は、山本広への協力を断ると同時に協力できない理由も述べたと思われる。そのあたりからフミ子も改めて考え直したのかもしれない。もちろん生前の田岡が竹中を高く買っていたのは事実である。しかし竹中自身は自分の四代目就任へ向けて工作はしなかった。竹中はただ、山本広の四代目に「待った」をかけた。同じように山本広に不信感を持つ中山、岸本、宅見など当時の若手が中心となり竹中を四代目に就けるべく猛烈に巻き返しへと動き、フミ子へも強く働きかけた。
山一抗争の結果から、竹中が正義でヤマヒロが悪のように描かれる事が多いが、ヤマヒロにとっては一度は手が届きそうなところまで来た四代目の椅子だった。なかったはずの遺言が目前で飛び出し、後戻りできない状況に追い込まれた。そんなヤマヒロの状況に同情する古参も多かったという。