事件
昭和55年(1980年)1月10日
岡山県津山市の小椋建設の事務所で、竹中組津山支部の小椋義政と山口組系小西一家内小島組々員・水杉義治が木下会系平岡組の片岡一良と池元幸男に射殺された。
背景
昭和47年、元山陰柳川組の杉本組々長・杉本明政が竹中正久の盃を受け竹中組系となってた。そして事件当時、杉本は竹中組の若頭に就任したばかりであった。小椋義政はその杉本組の代貸という立場でもあり、正久の直盃も受けた竹中組若中という立場でもあった。
この小椋が短期間服役している間に、愛人が平岡組の者と親密になり、出所後にそれを知った小椋が、平岡組を脅しにかかっていた。相手は非を認めすぐに謝罪していたが、小椋は相手が経営する麻雀店にも押しかけるなど執拗に脅し上げていた。
追い詰められれた平岡組が、謝罪して済まないならばと逆に小椋を殺害するに及んだ。一緒に殺された小西一家内小島組々員・水杉義治は小椋と個人的に親しく、その日たまたま小椋が経営する建設会社の事務所を訪れていて、巻き添えとなって射殺された。
経過
昭和55年(1980年)1月10日
事件があった当日夜、姫路市内にある木下会々長・高山雅裕の
愛人宅に拳銃を撃ち込む。
昭和55年(1980年)1月11日
竹中組々長・竹中正久、細田々長・細田利明、竹中組副組長で岡山竹中組々長・竹中武が、津山市の杉本組事務所に集合。宅見組々長・宅見勝、黒澤組々長・黒澤明、二代目森川組々長・矢嶋長次らも津山入りした。
昭和55年(1980年)1月13日
津山市経本寺で小椋義政の葬儀が営まれる。
この席上、田岡の舎弟で姫路の湊組々長・湊芳治が「辛抱する所は辛抱せんとあかん。木下会の高山と吉岡は兄弟分なんやし・・・」と発言した。湊が意味する所は、姫路の山口組系吉岡組々長・吉岡武延は、木下会々長・高山雅裕と兄弟分の盃を交わしており、その関係上こちらも幾分か遠慮をしなければならないという意味であった。
しかし、
「ちょっと話は別やないか・・・」と、
湊の意見に細田利明がクレームをつけた。
実は細田は、こういう事もあろうかと山口組定例会で念押しした事があった。
一時期山口組の直系組長達が、さかんに他団体の者と兄弟分の関係を結ぶという事があった。「山口組の他の組織がこういうところと間違いを起こさんでもない。そのような時、それらと縁組している者の態度はどのようになるのか」細田はこう質問をしている。
それに対して清水組々長・清水光重がこう答えている。
「あくまでも菱の代紋が大事です。間違いを起こしたらワシらはすぐ縁を切ります。体を張ってでも応援させてもらいます」
細田が言っているのはこの事だった。
つまり今回の事で、高山と吉岡が兄弟分だからといって竹中組は何ら遠慮する必要はないし、また吉岡組も何ら口を挟める筋合いもない。あくまでも竹中組の意志で事を進めればよいという事である。
しかし木下会の意向もあり、姫路の白龍会々長・山田忠一、湊組々長・湊芳治を仲介に立て、木下会々長・高山雅裕が小椋義政の霊前に線香をあげた。さらに木下会では湊芳治立会いのもと木下会系平岡組々長・平岡篤の小指と香典を竹中組に差し出した。高山は正久に謝罪し、事件に関係した者らを絶縁処分する事で和解を申し入れた。
この発言に湊は「絶縁までしなくても・・・」
と間に入って一応の和解が成立した。
絶縁であればヤクザの世界を永久追放される。破門であればその後期間を置いて復帰できる可能性を残せる。竹中組では絶縁の一歩手前、破門と捉えていた。しかし湊の発言に高山は処分自体をしなくても良いと解釈した。
事件後
津山事件については竹中組傘下にも和解が通達されていたが、木下会からは一向に処分通知が届かない。とっくに破門状が届いてもおかしくない時期は過ぎていた。竹中組の若い者らの不満は竹中武にも届いていた。武は賭場で木下会の者らとはよく顔を合わせおり、気心は知れていた。そこで武は木下会の者に、木下会幹部に自分のところに一度来るように言付けをした。武は一度話し合いの場を設けようと考えていた。その者の来訪を受ける前に、次の悲劇が起こる事になった。