姫路事件

事件

昭和55年(1980年)5月13日夕方
姫路市東駅前町にある木下会の事務所前で、竹中組の若頭補佐・平尾光が指揮する襲撃グループ、竹中組内大西組々員・大西正一、竹中組幹部・高山一夫、岡山竹中組若頭補佐・山下道夫、竹中組内杉本組々員・山田一が二代目木下会々長・高山雅裕らを銃撃し射殺した。一緒にいた木下会組員・森崎右も死亡し、幹部の松本平次、組員・工藤二三雄、組員・則本一蔵ら3人は重傷を負った。

背景

4ヶ月前の1月10日
岡山県津山市で二代目木下会系平岡組の手により、山口組系竹中組津山支部の小椋義政と同小西一家内小島組々員・水杉義治が射殺される事件があった。
津山事件

この津山事件はいったん手打ちになっていたが、この時の手打ち条件をめぐり竹中組では不満がつのっていた。手打ちには、木下会からは当事者である平岡組々長・平岡篤の小指と香典が竹中組に差し出され、会長の高山は正久に謝罪し、事件に関係した者らを絶縁処分する事で和解の申し入れがあった。

この時立ち会った田岡の舎弟で姫路の湊組々長・湊芳治が
「絶縁までしなくても・・・」と言葉を添え、
一応の和解が成立していた。

しかし湊の発言について双方で解釈が違っていた。
竹中組では絶縁から一つ手前の破門処分と捉え、木下会は処分自体をしなくても良いと捉えていた。そして一向に処分通知がない事で、竹中組では不満をつのらせていった。竹中組副組長で岡山竹中組々長・竹中武は、賭場で木下会の者らとはよく顔を合わせおり、気心は知れていた。そこで武は木下会の者に、木下会幹部に自分のところに一度来るように言付けをした。武は一度話し合いの場を設けようと考えていたが、その者の来訪を受ける前に事件が起こった。

木下会々長・高山雅裕を射殺する前には、木下会幹部を狙って竹中組岡山支部長・松浦敏夫、岡山竹中組若頭補佐・藤田光一が殺人予備で検挙されている。

竹中組では高山雅裕の家や木下会の事務所周辺に偵察を繰り返し、それに気付いた高山が仲介人の湊に会い、竹中組の者に注意して欲しいと訴えている。木下会としては、津山の事件は和解したはずなのに周囲に見え隠れする竹中組の不穏な動きに気を悪くするばかりであった。この間に岡山に武を訪ねていれば、誤解も解け事件は起こらなかったかもしれない。

経過

同年同日
事件が起こった時、竹中正久は、千葉県鴨川市で行われた双愛会々長の葬儀に山広組々長・山本広、黒沢組々長・黒沢明、益田(啓)組々長・益田啓助、名神会々長・石川尚らと出席し、新幹線で姫路へ帰ってくる車中にあった。

木下会々長・高山雅裕を射殺した実行犯らは事件後も出頭する事無く、はっきりと竹中組の犯行と断定はされていなかった。しかし警察では竹中組の犯行と決めてかかり、組員への別件逮捕が相次いだ。とりわけ津山の杉本組を主体とした犯行とにらみ、組長の杉本明政をはじめ組員らを別件逮捕で勾留し激しく攻め立てた。

木下会でも竹中組の手打ち破りではないかと考える者もいた。

同年7月
岡山県津山市で竹中組内杉本組々員・内山誠治と同・福田徹が、木下会系島津組津山支部の幹部・坂本貢を車で拉致しようとしたが、坂本が逃げたため拳銃で撃ち重傷を負わせた。

このことで高山の死後、木下会の三代目会長に就いていた大崎圭二から、竹中武になぜ竹中組が木下会を襲撃したのかと電話が入った。

この電話で大崎は「今回津山で理由もなしにやったという事なら、姫路の事件も竹中の者がやったんやないかと疑いたくもなる」と発言した。

これに対し武は、
「姫路の件は竹中組がやったんやないと木下会が思うのは勝手やが、ワシが『あれは、うちの者がやったんと違う』と、どこで言うた?」と反論した。

とにかく武は、なぜ杉本組が津山で島津組の坂本を銃撃したのか確認して電話をすると大崎に約束した。

武は津山の杉本組まで出向き、杉本組の小島大助に襲撃理由を訊ねた。小島は「坂本貢が木下会から破門され、木下会と関係ない人物になったために襲撃した」と竹中武に説明した。

その日の夜、武は大崎に電話を入れ、破門されているのだから木下会と関係ないはずだと主張したが、大崎の言い分は、破門は決まってはいたが、破門状はまだ出ていない。竹中にやられて破門状を出すというのでは格好がつかない。というものだった。

とりあえず事件について武は、竹中組も杉本組も見舞いは出さないが、竹中武個人名義なら坂本へ見舞いを出す意志があることを伝え、岡山の木下会事務所に向かった。武と大崎は人払いして話し合い、津山事件の和解条件の事、それについて不満を言う者が竹中組にいた事、ゼニ、指、ケジメの三つの条件があったとしてヤクザとして何より大事なケジメ、つまり処分が曖昧になっていないか。その辺の事をもう一回確認するよう大崎に念押しした。
ここで初めて誤解について話し合われた訳である。

この武と大崎の話し合いが進展し、湊芳治の「絶縁まではしなくても・・・」という発言を、お互いが異なった解釈をしていたことを確認した。大崎も処分が十分でなかったことを認め、竹中組と木下会の間で改めて和解交渉を進める事になった。

同年10月
5月に木下会々長・高山雅裕を射殺した犯行が竹中組による犯行と判明。

昭和56年(1981年)3月6日
姫路事件が竹中組の犯行と判明しても和解交渉は進み、竹中組から姫路事件についての香典も送られ改めて手打ちとなった。

事件後

1月の津山事件に端を発した一連の事件は、直後の和解条件の誤解から5月に木下会トップを射殺する姫路事件へと発展し、7月に入って再度津山で事件が起きた。しかし単純に誤解がこじれた上での事だろうか。そう単純ではないと思う。

最初に津山事件が起こった直後の竹中組は、応戦意欲が旺盛でその日のうちに木下会々長の愛人宅を銃撃している。全面的に木下会と事を構えようと動いている。しかしながら素早く和解工作に動いた木下会は、姫路の湊組々長・湊芳治を仲介人に立てた。
葬儀での発言からも湊は双方を和解させる事に積極的だと考えられる。津山事件の報復も十分ではなかったが、そういう湊に押される形で、竹中も不本意ながら和解の席についたと思う。和解の席上における湊の言葉足らずが、姫路事件を引き起こした事に違いないが、冷静に検証してみると、この席で正久は処分について念を押さなかった。正久ほど頭の切れる極道が確認を怠るとは考えにくい。
和解の席で、新たに攻撃理由を勝ち取ったかに思えてならない。

武にしても和解条件の誤解に早くから気付き、木下会幹部に自分のもとへ訪ねて来るよう伝えていたが、解決に向けて積極的に動き、事が起こるのを未然に防ごうとしたとまでは言えない。武も頭のいい人物である。あいまいなままに放置しておく事は、木下会にとってまずい事ではあっても竹中組にとっては何も都合の悪い事ではない。

そして姫路事件当初は、正久も武も竹中組の者が殺ったかどうか分らないという事で、木下会々長・高山雅裕の葬儀に正久は堂々と参列している。

正久は本当に竹中組の犯行と知らなかったのだろうか。これも考えにくい。否定も肯定もせず、あえて知る必要もない。知ったところで大義名分もあり筋は通っている。手打ち破りは、処分をしない木下会側ではないかという理屈が立つ。
事件から数時間後、新幹線で姫路駅に到着した正久にその場で事件は報告され、多くの竹中組々員が駅周辺を警戒した。そして正久は事件後間を置かず神戸の田岡のもとを訪れ、事件について竹中組の犯行かもしれないことを告げ、そうなった場合仲介に立ってくれた湊の立場を相談している。もちろん田岡も正久が木下会側の処分について不満を持っていた事を承知していた。
田岡にしてもその不満が良い方に転ぶ事を期待していた節がある。

10月に竹中組の犯行と割れた際には、田岡は正久を呼び弁護士代の足しにしろと固辞する正久に500万円を押し付けた。
田岡にしても関西二十日会に所属する木下会を攻撃する事は、満足すべき事だったようである。

姫路事件のヒットマンたちが、社会復帰したのは山一抗争終結後で、竹中組は竹中武組長の意志で山口組を離れていた。しかしそういう竹中組も代替りしたうえで六代目山口組に復帰するという話が具体的に持ち上がるが、いくつかの条件面で折り合いがつかず白紙に戻った。その後は竹中組々員として活動する事は難しかったようで、襲撃班のリーダー平尾光は四代目健竜会の舎弟となった。大西正一は二代目竜正会々長として五代目健竜会で組織委員長に就いている。山田一は所属の杉本組が、竹中組を離れ宅見組傘下となっており、その杉本組の三代目組長に就いている。山下道夫は堅気になり、高山一夫は二代目弘道会内二代目高山組の顧問に就いていたが、最後には自殺した。