明友会事件

事件

昭和35年(1960年)8月9日
大阪 ミナミのサパークラブ「青い城」に山口組々長・田岡一雄と中川組々長・中川猪三郎、 山広組々長・山本広、織田組々長・織田譲二、富士会々長・韓録春らが歌手の「バタやん」こと田端義夫の公演を慰労するために訪れた。
先にクラブ内にいた明友会の幹部・宋福泰と韓博英が田端義夫に気付き、田端に歌を強要した。 間に入ってこれを断った中川猪三郎が殴打され、 織田譲二や韓録春も加わり店内は一時騒然となった。

背景

相手側の明友会は、甲山五郎こと姜昌興会長を中心に昭和28年頃、大阪の鶴橋駅高架下にある歓楽街や生野区猪飼野近辺の不良やアウトローが集まった愚連隊の連合組織で、メンバーの大半は韓国人・朝鮮人の若者で構成されていた。昭和31年頃にはミナミにも進出し構成員は600人を数えた。

青い城での事件の2ヶ月前にも、ミナミで山口組傘下組員と明友会の者との間で小競り合いがあり、明友会側が神戸の山口組本部に向けて猟銃を発砲するという事件があった。この頃の大阪は、地元組織数団体が強固な地盤を持っている中、愚連隊系組織が大小乱立しているような状況であり、神戸から勢力を広げつつあった山口組としても大阪は抑えておかなければならない重要な地域で、勢力拡大のためにも大阪を戦場としてどこかと一戦交えなければならない時期でもあった。

経過

昭和35年(1960年)8月10日
事件を聞いた明友会々長・姜昌興は、山口組と真正面からぶつかってはとても勝ち目はないと考え、事態収拾に向け西宮の諏訪組々長・諏訪健治に仲裁を依頼した。

諏訪から話を持ち込まれた中川組では、組長の中川猪三郎が殴られていると言う事もあり中川組の幹部が和解を拒否した。

諏訪は事件現場に居合わせていた山本広にも交渉したが、山本もあっさり話をけった。その頃山本は淀川区十三の旅館で中川猪三郎、韓録春らと明友会殲滅の作戦会議中であった。すでに神戸の本家からは若頭の地道行雄が檄を飛ばしていた。

昭和35年(1960年)8月11日
南区南炭屋町に前線本部には、富士会の桂木正夫、中川組の市川芳正、安原会の佐野晴義、そして地道行雄の舎弟になったばかりの柳川組から地道組に直っていた福田留吉ら総勢50人が道具を手に集結した。

本家若頭の地道行雄が総指揮を執り、他にも前線基地を設け、各地に総勢300人を待機させた。別府の石井組からも夜桜銀次こと平尾国人も参加している。

昭和35年(1960年)8月12日
午前8時過ぎ、西成区西萩町のアパートきよみ荘二階の号室で、安原心腹会や中川組を主体とする混成部隊が明友会の幹部・李猛を襲撃した。中川組の正路正雄が玄関ドア越しに発射した銃弾が腹に命中し重傷。

昭和35年(1960年)8月16日
明友会々長・姜昌興は、地道組舎弟で柳川組々長・柳川次郎に仲介を依頼し、依頼を受けた柳川は地道に話を通した。地道の返答は「全面謝罪をしたいというなら神戸に連れて来い」というものだった。姜昌興は翌17日に神戸へ出向く事を約束したが、明友会内では幹部から「全面降伏には断固反対する」という異議が出され、会長の姜昌興は神戸行きを断念した。この事は地道を更に激怒させた。

昭和35年(1960年)8月19日
夜、山口組系加茂田組の前川弘美ら3人は、青い城事件の張本人である明友会幹部・宋福泰と韓博英ら6人とミナミの路上で遭遇し、拉致された。3人は布施の足代にある有楽荘アパートに連れ込まれリンチを受ける。これを知った明友会々長・姜昌興はすぐに3人を解放するよう命じ、日付けが変わる頃3人は西成区にある事務所に帰りついた。

昭和35年(1960年)8月20日
これを受けて加茂田組々長・加茂田重政は報復準備にとりかかったが、察知した警察に西成の事務所を包囲される。組員らはそれぞれ事務所を後にし解散したと見せかけて南区大和町に再集合した。加茂田重政ら15人は有楽荘アパートに乗り込み、明友会系三津田組の5人を襲撃し山岸襄を即死させ李義雄ら4人に重傷を負わせた。

明友会々長・姜昌興は、山口組の直参である別府の石井組々長・石井一郎を通じて全面謝罪を申し入れた。

昭和35年(1960年)8月23日
明友会々長・姜昌興と幹部全員が断指したうえで、大阪府箕面市の箕面観光ホテルで、事実上明友会の全面降伏となる手打ち式が行われた。仲裁人は別府の石井組々長・石井一郎だった。

明友会は山口組の猛攻に僅か2週間たらずで壊滅した。

この事件では山口組から84人が逮捕された。

事件後

山口組にとって明友会の殲滅は、そのまま大阪の制圧につながった。統制された組織的な攻撃と機動力を見せつけ、一気に明友会を壊滅に追い込んだ。
山口組の本拠地神戸から坂井組、杉組、溝橋組、清水組が大阪へ進出し、南道会の藤村唯夫が大阪地区の責任者に任命された。また藤村は南道会を解散し、自らは藤村組に改め、南道会八人衆の白神一朝、中西一男、福井英夫、加藤次男、宇田輝夫、東井儀一、松尾三郎、福井三則らを田岡の直参へ引き上げた。

韓録春の富士会は再編され一心会となり、壊滅した明友会から金仁植が一心会の傘下に入った。同じく元明友会からは小田秀臣が地道行雄の舎弟になった。

この事件では加茂田組々長・加茂田重政や地道の舎弟の黒澤組々長・黒澤明らも長期服役する事になり、山口組の払った犠牲も大きかったが、それ以上に大阪を手に入れた事は、その後全国進出を目指す山口組にとっても大きな出来事となった。