ついにと言うかやっぱりと言うか三代目弘道会々長の竹内照明が若頭補佐に就いた。
過去に当代の出身団体が、ここまでガッチリとラインを固めた事はない。三代目田岡一雄組長は別として、すでに広域組織となっていた四代目発足時は組長に就任した竹中正久は、竹中組を実弟の竹中武に譲り直参組織としていたが、山口組本家の執行部には入れていない。竹中武はヒラの若中だった。
当時の本家若頭中山勝正ら執行部が、正久のもう一人の実弟で竹中組相談役の竹中正を竹中正組として本家直参に引き上げようと提案した事もあったようだが、竹中正久組長は竹中組優遇に難色を示したと言われている。それでもこの話は実現しかけていたが、竹中正久組長の暗殺、竹中正自身のハワイでの逮捕、竹中武の逮捕などもあり実現はしなかった。短命に終わった竹中正久の四代目時代は山一抗争そのものであり、当代の影響力はほぼない。当代を出した竹中組は抗争において独自に大きな戦果を上げる事で山口組内でその存在感を増した。そして竹中武が文句なしで若頭補佐に就任したのは、山一抗争終結間際の平成元年だった。
五代目渡辺芳則組長の時はどうだったのか。
先代の竹中正久組長を出した竹中組は、五代目発足と同時に山口組を離脱しており竹中色を残さない新たなスタートだった。渡辺は本家の組長に就任すると同時に二代目山健組を手放し、桑田兼吉を跡目に三代目山健組を本家直参とし若頭補佐に就けた。この時の若頭は渡辺の五代目就任に貢献した宅見組々長・宅見勝が就いている。そして渡辺は二代目山健組の主立つ幹部らを本家の直参に引き上げた。浅川一家、松下組、盛力会、健心会、中野会、鈴秀組、松本組などがそうである。なかでも中野会は数の上でも急膨張し若頭補佐に就任し執行部入りした。当代を出した事で三代目山健組、中野会を中心とする山健組系が全国的に幅を利かし、大きな顔で無理をゴリ押しした時代だった。
1997年に中野会により若頭の宅見勝が暗殺された後、長らく若頭の席は空席となった。渡辺の五代目体制そのものが宅見に大きく依存して成り立ってきた体制であり、次の若頭を決めるにあたって渡辺が独断できる状況ではなかったようである。山健組系の末端が大きな顔をしていたのとは裏腹に本家の奥の院での渡辺は、実権のない飾り物のような扱いだった。
以上のように四代目時代、五代目時代とそれぞれ本家の当代を出した組織は、その時代において勢力を持っていたが、そのまま出身組織自体が当代を引き継いでいくラインが確立されていなかった。また、同じ組織の出身者が連続して代を取るのもどうかという風潮もあった。当代の出身組織が若頭を務めたのも六代目体制が初めてである。
そして今回の六代目体制では、今までにない初めての試みが行われようとしている。竹内が若頭補佐に就いた事でいよいよ最終段階を迎え、六代目体制十年にして弘道会こそが山口組の中心だという体制が整ってきた。そしてこの先の山口組は、本家の代を取るのは弘道会から。という体制になるのかもしれない。この事が良い事なのか悪い事なのか、それはそれぞれの立場によるだろう。
山口組は今まで本家の跡目を巡り様々な問題が起こってきた。代替りした後も恩恵を受ける者と窓際に追いやられる者とハッキリと分れているようにも見える。弘道会が山口組の実権を握り続ける事で、別の問題が起こってくる事も間違いない。押し込められた不満がどのような形で表面化してくるのかは分らないが、弘道会のやり方に不満を持つ者がいてもおかしくない。