元四代目山健組若頭 井上国春の上告棄却

2007年5月に山健組傘下で名古屋に拠点を置く多三郎一家の後藤一男総長が、神戸市内で刺殺された事件で、先に逮捕されていた実行者から遅れて首謀者として2010年4月に逮捕され一審で無罪、二審で懲役20年の判決を受けていた元四代目山健組若頭で当時健國会々長だった現在堅気になっている山本國春(井上国春)の上告が2015年6月棄却された。

一審判決

山本國春(井上国春)元会長の裁判は、一審の神戸地裁では裁判員裁判となった。
検察の主張は「被告が殺害直前に電話で被害者の居場所を教え、直接支持を出した」というもので、これに対し弁護側は「殺害を指示したことは一切ない」と主張。
裁判員裁判で争われた一審の神戸地裁は、2012年2月「井上被告の指揮に基づくものかどうかは合理的疑いが残る」として無罪判決が言い渡された。

つまり一般人が参加する裁判員裁判では、警察や検察が用意した証拠や主張に対して、それらを元に被告を有罪とするには無理があると判断した。法の運用について素人であるはずの一般人でさえ、この事件について被告が指示を出していたと確信するには至らなかったという事である。

二審判決

一審の無罪判決を受けて検察側は控訴し、舞台は大阪高裁へと移り裁判員裁判ではなく、本職の職業裁判官だけで事件は審理される事になった。
2014年1月大阪高裁は一審判決を破棄して懲役20年の逆転有罪判決を言い渡した。判決理由として「事件は実行者の個人的利益とは言えず、健國会による組織的犯行と認定したうえで、経験則上特段の事情がない限り、組長の指揮命令に基づいて行われたと推認すべき」と判断された。また、一審判決を経験則に反する不合理なものとして破棄した。

二審判決には大きなポイントが二つある。推認と経験則。
ヤクザ組織というものは・・・という推認と、今まで見てきたヤクザ特有の事件はこうであったという裁判官の持つ個人的体験。司法の場にこの二つを持ち出してしまうと、裁判制度そのものが根底から揺らいでしまうのではないかと思える。

上告棄却

二審の有罪判決を受け、被告側が上告していたが予想通り215年6月上告が棄却され刑は確定した。この事件と一連の裁判の流れには非常に考えさせられるものがある。
二審判決にあったように「実行者個人の利益のため」とは、確かに考えにくい面もある。しかしそこを明らかにするのが警察であり検察である。捜査機関の能力が近年落ちているのは事実かもしれない。だからといってそこで「推認」へ一気に思考を飛躍させ、またそれを裁判所が支持していいものなのか。
一審では合理的疑いが残ると無罪になった部分を何ら解明せず、高裁は経験則に反する不合理なものと暴排の世論を背景にゴリ押しした。これはヤクザに対しては裁判官のサジ加減で、自由に刑罰を与えると言っているに等しい。本来なら刑事裁判は、法と証拠に基づいて適正に行われるべきで、推認と経験則に基づくという方法論は刑事訴訟法のどこにも載っていない。
山本國春(井上国春)元会長が無実であるかどうかという問題ではなく、判決を導き出す経緯に不備があるように思う。裁判官が推認や個人の経験則を持ち出して判決を出すというのなら、なにも司法資格者でなくてもいい。