竹中正久の四代目襲名は強行突破だった

山本広と竹中正久の間で揺れ動いた四代目組長の座だが、その経緯については以前にも田岡フミ子は四代目にヤマヒロを推挙していた?でも書いている。

その後、岸本才三が更に興味深い証言をしている。

田岡が竹中を評価していたのは事実に違いないが、ゆくゆくの四代目を竹中に継がせたいというニュアンスはなかったという。フミ子が言ったとされる「お父ちゃんの遺志」というのはこじつけで、岸本本人と織田譲二の二人で洗脳していったというのだ。

もともフミ子は竹中の持つ無骨さなどを心配し、稲川会等の他団体と上手く付き合っていけるかを危惧していた。しかし岸本の評価によるとフミ子は田岡以上の女極道で、ヤクザが本来どうあるべきかを真剣に、かつ誠実に考えていた。そこへ竹中派の岸本や織田らが入れ代わり立ち代り訪れ徐々にフミ子の決意を固まらせた。

経緯を丁寧に観察すると分かってくる事だが、実は山広派はフミ子へのパイプが薄かった。蔑ろにしていたと言うべきか理由は分からないが、先代の姐さんと言えども男の世界に口出しは無用と考えたのだろうか。それとも多数派という驕りと油断があったのだろうか。少数派だった竹中派の丁寧な工作と比べると雑な経緯を辿っていたように思う。

最終的に、穏健ではあるが決断と行動に欠ける山本広か、他団体との協調性に不安はあるが意志の強さで群を抜く竹中かと、フミ子自身に決断のタイムリミットが近づいていた。兵庫県警は四代目を作らせないと息巻き、フミ子に四代目の決定に加担せず山口組と手を切れ、そして県警に念書を提出しろと強硬に迫っていた。さもなくば田岡の長男、田岡満を逮捕するとフミ子に脅しまでかけていた。ここまできてフミ子が四代目作りから降りると竹中擁立は空中分解することになる。

こういう田岡家の差し迫った事情は竹中派の追い風にもなり、1984年6月5日の定例会で早期強行突破を実現させた。四代目決定と県警へのフミ子の念書の提出は同時に行うことで、その後田岡家は山口組と関係を絶った。

後年岸本才三は、「ヤマヒロにやってもろてから竹中が五代目を継いだら、あんなに割れんで済んだやろなあ」と冷静に振り返っている。