竹中組復活の正当性

以前コラムに書いた山口組においての竹中組の名跡復活についての記事だが、
竹中組 本当の二代目は誰なのか
その見方とはまた違う見方で、竹中組の正当性を考えてみたいと思う。

2005年、司忍の六代目襲名と同時に高山清司が本家若頭に就任したが、この頃に高山は岡山の武に面談している。そこで高山は竹中組の組長である武には引退してもらい、跡目を後継者に譲った上で三代目としての竹中組を六代目山口組の直系に直したい、山口組に竹中組の名跡を復活させたいという希望を武に伝えた。

六代目発足当時の山口組は、倉本組など一時期その名跡を消していた組名をその系譜に縁のある者らに継承させて、山口組内にそれぞれの組織を積極的に復活させていた。その一環として竹中組の名も必要だったのだろうか、高山は武に対して交渉をした訳である。

ただし高山が必要としたのはあくまで竹中の暖簾であって、組長の武には引退してもらい山口組とは無関係になってもらうという条件付だった。これに対する武の返答は自分は引退する気はないという事と、自分は二代目を名乗ったことはないので、自分が引退しても三代目竹中組には成らないという事だった。

後継が二代目なのか三代目なのかは置いても、高山の希望は武は必要ないが竹中の名前は欲しいという事があからさまで、武にとってさぞかし気の悪い話に違いない。

それでも武は妥協案を高山に提示している。
元竹中組の人間が今の山口組系のあちこちに居る。その中から見込みのある者を引き立て竹中組を名乗らせてみてはどうか。そのことに異論はない。と武は高山に提案しているが、それをそのまま実行することはないままに六代目山口組は続いていた。

高山としても武の提案に乗ることに躊躇があって当然だろう。
山口組内に竹中組を新設しても、岡山に武が現役として竹中組が存在し続けるなら山口組内の竹中組は亜流であり邪道にもなる。また岡山の武率いる竹中組と比較されれば見劣りすることにもなるだろう。つまり武との交渉は決裂したのだ。

この交渉決裂で高山が出した答えは、山口組の者は竹中武との交際を厳禁するという通達だった。この交渉があってから高山は武と会うこともなかったし、2008年に武が亡くなった時も山口組からの弔意もなかった。

しかし当時の武の提案を採用したという意味では、安東美樹を当代に立てた二代目竹中組というのは、武の了解を取った上で時を経て実現したという見方が出来る。

しかし武と高山が会談した後、武が亡くなるまでの対応や弔意の無さに山口組として竹中組の名跡を大切に出来るのだろうか。単に組名を残していくだけの現体制の方針は、功績ある組名の所有権の主張なのだろうか。そんな中身の無い継承に皆が内心では嫌悪しているかもしれない。

山口組において名跡の復活というのは組全体の総意でもなく、ましてその系譜に縁のある者達の希望を叶える事でもない。それはその時代の主導権を握る者の胸先三寸である。例えば倉本組は五代目時代に名跡が途絶えたが、それは放置されてきたし六代目体制では後藤組など多くの名跡が消えたというより消されている。今でも慣れ親しんだ後藤組の名に愛着を持つ者もいるだろうが、現体制で後藤組の名が復活する事はないという事くらい誰でも理解している。しかし次の代になれば二代目後藤組の名乗りも許されるかもしれない。