山本健一

三代目山口組若頭 山健組々長

人物像

山本健一はイケイケのヤマケンと呼ばれ、後年は自らの持病も省みず、
数々の抗争において陣頭指揮を執り、山口組の面子のために
自分の命をも引き換えにしたといえる生涯だった。

武闘派と称される一方で、回りの者にはとても温厚で
自分の若い者を怒鳴りつけたり殴るような事もなかったという。

当時まだ若かった渡辺芳則が、ボディーガード役として健一の麻雀に
付いていた時、ついウトウト居眠りした事があった。健一は叱るどころか、
渡辺を起こす事もなくそのまま寝かせといてやれと、一人で帰って
しまうほど自身の若い者にも寛大な人物だった。

本家の若頭という最高幹部でありながら、名前も知らない他の
系列組織の末端組員が、刑務所の中ですれ違う時に目礼した際には
笑顔で微笑み返すだけの器の広さがあった。

大阪戦争について週刊誌の取材で和解金の事に触れられ、
「ケンカして金とるのは一番の恥ですわ。人間の命、これ金で買えますか?
若衆の命を金で売り買いするようなこと習うたこともないしね」
と田岡の若い者に対する教育を暗に立てることも忘れなかった。

相手がどんな大物でも我が親分田岡に比べれば、いかほどの者かと考えていた。

田岡の使者として右翼の大物児玉誉士夫を訪ねた際には、
小さな門からの出入りを案内されたが、大きな門がある事を知り、
「ワシの用事で来たんならええけど、今日は親分の名代で来たんや。
大きい門があるならそこから入らせてもらう」
と言い張り、普段は開けない大きな門を開けさせた。

六代目山口組々長司忍も
「ヤマケンの親分がホンマの最後の極道やろね。あれが極道の
豪傑の時代の一番最後の人」と山本健一の死後に述べている。

出生

大正14年(1925年)3月5日
生まれは兵庫県神戸市葺合区(中央区)だが、親元は広島だと言われている。
少年時代は、穏やかな性格で頭のよい少年だった。

昭和17年(1942年)
大阪電気学校(清風高等学校)を卒業し横須賀海軍工廠に勤めたが、
召集され鳥取の部隊に入隊。

終戦後は神戸に戻ったものの、家族の消息も掴めず、
自暴自棄となって無頼生活を送る。

尾崎彰春(後の心腹会々長)と行動を供にし、1951年頃に
当時三代目山口組で若頭を務めていた安原政雄(安原会々長)の
若衆となって山口組系組員となる。

昭和28年(1953年)
鶴田浩二襲撃事件を起こす。

昭和29年(1954年)
梶原清晴らと谷崎組を襲撃し、谷崎組若頭に重傷を負わせた。
この事件で懲役3年となり加古川刑務所に服役する。

田岡の直参へ

昭和32年(1957年)
出所後に山口組々長の田岡一雄から盃を受け直参に昇格した。

昭和36年(1961年)
自ら山健組を結成し、二年後には若頭補佐として執行部入り。

その後一時若頭補佐から外れるが、昭和43年(1968年)梶原清晴若頭の
新体制で再び若頭補佐に就任。

昭和46年(1971年)
若頭の梶原清晴(梶原組組長)が硫黄島で磯釣り中に溺死.

本家の若頭に就任

後任若頭を最高幹部間の入れ札(選挙)で行い、山本広(山広組々長)に
2対4で敗れていたが、田岡の指名により逆転就任することとなった。

小松島抗争、明友会抗争、鳥取抗争、博多事件、広島代理戦争、松山抗争など全国各地に侵攻した山口組だったが、山本健一にとって最後にして最大の抗争を迎えることになる。

大阪戦争

昭和50年(1975年)7月
大阪府豊中市の喫茶店「ジュテーム」で松田組系溝口組が、
山口組佐々木組内徳元組の組員3人を射殺した。元々は徳元組が溝口組の
賭場で嫌がらせを続けた事に原因があり、末端同士の揉め事とされていた。

昭和51年(1976年)10月
大阪の日本橋で大日本正義団会長の吉田芳弘が
佐々木組々員によって射殺された。

昭和53年(1978年)7月
田岡一雄が京都のクラブ「ベラミ」で大日本正義団の鳴海清に狙撃される。
一命は取り留めたが、田岡の命が狙われたことに山口組全体に
大きな衝撃を与えた。

報復は健一率いる山健組を中心に、山口組上げての全面戦争となり、
特に山健組の健竜会、健心会、盛力会は大きな戦果を上げる。
手打ちすら望まない山本健一は、松田組への猛攻撃の後、
11月1日に一方的に抗争終結を宣言。

それから2週間後保釈中だった山本健一は、保釈を取り消され収監された。

昭和54年(1979年)3月
元法相西郷吉之助の秘書官下内田清の尽力により、健一は病気を理由に
拘置の執行停止を勝ち取りそのまま病院に入院した。

しかし上告も棄却され健一の3年6ヶ月の刑は確定していた。このため
拘置の執行停止も2ヶ月で終わり再び収監され服役生活に入る事になった。
医療刑務所であったが、健一の肝臓病は進行しており服役生活に耐えられるか
皆が心配するところだった。

幻の四代目襲名

昭和56年(1981年)7月
三代目山口組々長の田岡一雄が亡くなった。

山口組の四代目は、刑期を終えれば健一が襲名するはずだった。

昭和57年(1982年)1月26日
健一の病状はさらに悪化し刑の執行停止が決定する。
翌27日、健一は大阪医療刑務所から生野区の今里胃腸病院に移された。

1月30日、健一は危篤状態に入った。

1982年2月4日、山本健一逝去。享年56。

「日本一の親分の下で日本一の子分になる」
と言っていた山本健一は、四代目を約束されながら
皮肉にも子分のまま生涯を終えた。

その後は、自身の率いた山健組は渡辺芳則が二代目を襲名したが、
山口組本家は健一が亡くなった事で跡目を巡って混乱し、
四代目を竹中正久が襲名すると一和会とに分裂した。

健一の後を継いだ渡辺は、その後の山一抗争を経て
健一が果たせなかった山口組の組長の座に五代目として就いた。

渡辺が本家の当代に就いたことで、山健組は桑田兼吉が三代目を襲名した。
その桑田も平成19年(2007年)4月に健一同様に服役中に刑の執行停止で
民間病院に移され亡くなった。

桑田亡き後の山健組は井上邦雄が四代目を襲名した。
井上は健一が全霊を賭けて指揮を執った大阪戦争において
17年の懲役を務め上げている。

初代山本健一亡き後の山健組は、健一が率いた頃以上に発展してきたが、
健一の山口組への貢献があまりにも大きかったこともあるだろう。

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雲を駆る奔馬 三代目山口組若頭山本健一の生涯