五代目組長

渡辺芳則

昭和16年(1941年)
栃木県下都賀郡壬生町の農家の家に生まれる。

1956年(昭和31年)
中学校を卒業後しばらくは地元でぶらぶらしていたが、
その後上京し浅草の日本蕎麦屋で住み込みで働くものの17歳の頃には、
飯島連合会系のテキヤを手伝うようになる。この東京時代に山健組の
三輪正太郎と知り合う。

山健組へ

渡辺は東京での生活に見切りをつけ栃木に帰った後、京都に移った。
それでもぶらぶらとした生活は変わらず、20歳の頃に三輪を頼って
神戸へと出た。これが山健組に入るきっかけとなる。

いったん神戸に出た渡辺は山本健一の舎弟、尻池実が豊中市の
蛍ヶ池に手がけていた宅地造成地の仕事を手伝うようになる。

渡辺は後年この頃の事をこう語っている。
「メザシが鯛になる道理はない。鯛になるには若いうちに鯛の子供に
なるしかない。俺が山健組に入った頃には人の靴も並べたし、
人のお茶もくんだ。そやけどコイツにいつか俺のお茶くましたる。
いう腹は持っとったからね」

渡辺自身の記憶によると山健組に入ったのは昭和38年(1963年)頃である。
山健組時代の渡辺は「渡辺五郎」を名乗っていた。

まだ20代の頃、渡辺は山健組を破門になっている。当時の山健組内では
舎弟頭の田中達男が組長の山本健一に次ぐ実力者で、渡辺はこの田中と
ウマが合わなかった。そのうち口論だけでは済まなくなり破門状が回された。
しかしこれは組長の山本健一によって解かれ、以降は健一に付く事となった。

金運

渡辺は山健組に入った後もたびたび栃木の実家へと足繁く通った。
親に金の無心をするためだった。このころ渡辺の実家では農家をやめて
二十軒以上の貸家を営んでおり、かなり裕福であった。当時の金で一回に
二百万、三百万と持ち出していた。
他にも個人的なスポンサーがいた。渡辺に金が必要となると
パチンコの全遊連会長が気前よく渡してくれたという。

山本健一の妻・秀子の後ろ盾

複数の事件により44年から組長の山本健一はわずか一年の間に
4回も逮捕されている。同時に幹部数名が逮捕され、さらに舎弟の尻池実や
松下靖男らが指名手配された。

山本健一の妻・秀子に言わせると事実上の壊滅状態だったという。
そこで秀子はまだ下っ端の渡辺にこう言った
「どないや渡辺、お父さんの代わり務まるか?」
早い話、拳銃を持って出頭し健一の身代わりを引き受ける事が
出来るかということである。
渡辺は「わかりました。それ以上言わんといて下さい」と微笑んだ。
この件で拳銃12丁を持って出頭した渡辺は1年2ヶ月の判決を受け服役した。
現在なら10年以上は服役する事になるだろう。

秀子はこの件で
「お父さんを助けたのはこの子なんだから、私の権力の座を乱用してでも、
この子を絶対に男にしてやろうと思うたわけ。私があの子をカシラに
据えるように持っていった」と語っている。

45年(1970年)
服役を終え出所すると渡辺は、山健組内に自身の組織健竜会を結成した。

渡辺と大阪戦争

46年(1971年)
山本健一が山口組本家の若頭に就くと同時に渡辺も山健組の若頭に就いた。

若頭に就いたとはいえ渡辺は山健組全体を指揮し、牽引していくほどの
立場にはなかったという。数こそ力と考える渡辺だったが、当時の山健組は
山本健一の考えから小所帯であった。抗争にしても健一は、いざという時に
率先して行く者がいればいいという考えである。対する渡辺は、同じ行くにしても
行った人間を少人数で支えるよりも、多くの組員で支える方が経済的に
負担も軽く出来るという考えである。

健竜会結成後の渡辺は自身の組織健竜会の膨張に力を注いだ。

大阪戦争においては渡辺の指揮の下、山健組として抗争に当たったという
認識は誤解で、実際は山健組内の健竜会、盛力会、健心会が対抗心むきだしに
競い合って抗争に当たった事が、結果的に山口組内での山健組の評価となり
若頭渡辺の評価になった。

この大阪戦争では渡辺率いる健竜会が、和歌山の松田組系西口組々長、
西口善夫の自宅を狙い、門前で警備に当たっていた組員二人を射殺した。
この事件で健竜会は五人の逮捕者を出したが、盛力会や健心会と違い、
会長の渡辺まで類が及ぶことはなかった。同会理事長補佐の井上邦雄は
この事件の首謀者として17年服役したが、出所後に健竜会の四代目を継ぎ、
その後山健組の四代目組長に就任した。

二代目山健組々長へ

大阪戦争終結後、山本健一は保釈を取り消され収監された。
上告も棄却され健一の3年6ヶ月の刑は確定した。

昭和56年(1981年)7月
三代目山口組々長の田岡一雄が亡くなった。
四代目には山本健一が内定しており出所後に襲名予定となっていた。
しかしその山本も刑の執行停止となり昭和57年(1982年)2月4日に死去した。

昭和57年(1982年)
渡辺は山健組二代目を襲名し、 同年6月には三代目山口組の直参に昇格した。

昭和59年(1984年)6月
山口組四代目組長に竹中正久が就任した新体制で、若頭補佐に就任する。

昭和60年(1985年)1月
四代目組長竹中正久と若頭の中山勝正(豪友会々長)、
南力(南組々長)が一和会のヒットマンに暗殺される。

五代目山口組々長へ

同年2月
組長代行に中西一男が就任し、新たな執行部体制で若頭に就任。

平成元年(1989年)4月27日
一和会との抗争を終結させて、五代目山口組々長を襲名した。

五代目就任にあたって宅見勝との密約説もささやかれ、組の運営は
執行部に一任させられ組長としての発言を抑制されていたという説がある。

事実、抗争事件や外交の判断は若頭の宅見勝を中心に執行部が実権を握った。またこの五代目体制下では各地の独立団体を傘下に収め山口組として
更に膨張し、一時は直参組織が120を超えた。ブロック制導入などの
合理化や統制化を進めて近代的組織へと発展させた。
しかしこれらも宅見の手腕によるところが大きい。

ところが宅見との関係も徐々に悪化し、平成9年(1997年)中野会の
手により宅見勝は射殺された。

平成16年(2004年)11月
藤和会系山下組々員が京都で起こした警官誤射殺事件で、不法行為に対する
使用者責任を認定する最高裁判決を受けた直後、長期静養を宣言したが
渡辺本人の意思ではなく執行部に押し切られる形での
休養だったと言われている。

平成17年(2005年)
体調不良という建前で引退した。

平成24年(2012年)12月1日
兵庫県神戸市中央区の自宅で死去。71歳没。

激動の1750日