山一抗争とは、三代目山口組から四代目山口組々長竹中正久の就任を巡り、竹中の四代目に反対する者らで一和会を結成し分裂。その後山口組対一和会で起こった一連の抗争事件。期間中は317件の事件が発生し、分っているだけで双方に死者25人、負傷者70人以上を出し、警察官・市民に負傷者4人を出した。
分裂に至る経緯
昭和56年(1981年)7月23日
三代目組長田岡一雄が心不全で死去。
昭和57年(1982年)2月4日
大阪刑務所を出所後に四代目が内定していた若頭の山本健一が死去。
同年6月
若頭補佐の山本広(山広組々長)が組長代行に就任し、
そこから少し遅れて同じく若頭補佐の竹中正久(竹中組々長)が若頭に就任。
同年8月
竹中正久は脱税容疑で逮捕される。
同年9月15日
竹中正久が逮捕拘留中で不在の中、定例会で組長代行の山本広が「四代目をやるよう推された」と宣言し四代目組長に立候補。これに竹中正久支持派が猛反発する。田岡の妻・文子の説得により、山本広は山口組四代目問題を延期する。
昭和58年(1983年)6月
竹中正久が保釈出所する。
昭和59年(1984年)6月5日
直系組長会に田岡フミ子が出席し、竹中正久を四代目に指名し、竹中が四代目組長就任の挨拶をした。竹中の四代目に反対する者らが、この日の直系組長会をボイコットしている。
田岡文子によると、田岡の遺志は四代目組長には山本健一を、その時には若頭を竹中正久にせよという事で、山本健一亡き今、四代目には竹中をという事だった。
田岡が亡くなった直後、文子は遺言はないと言っていたではないかと言うのが反対派の言い分である。
ともかく、“田岡の遺志による文子の指名”という事で、決定した四代目だった。
以上が四代目決定のいきさつとして世間に知られる流れであるが、四代目襲名直後に、作家の正延哲士氏のインタビューに答えた時の竹中正久の発言が残っている。長くなるが全文をそのまま引用する。
「わし、ヤマヒロ(山本広)と話したことがあるぜぇ。四代目についてや。前のオヤジ(田岡)が撃たれた後、大阪の喧嘩になって、ぎょうさん刑務所へいってるやろう。それから、若い者がよその組とマチガイ(喧嘩)起こすわなぁ。そういう若い者の面倒をもっと見たらなあかん。そういう事をちゃんとするようになったら、わしみんなに(山本広を四代目にするよう)頼んだる、言うたんや。若い者が喧嘩起こしたらやなぁ、すうっと自分が飛んでいってや、話しつけたるとか、そうやって若い者のために体を張るいうんか、それをせなあかん言うたんや。ま、条件つけたいうかいなぁ。そういう話をしたことはあったぜぇ」
「それで・・・」
「一年たっても変わらんかったわな。それで、姐さんから、ヤマヒロに協力したって欲しいいう話があったとき、わしは協力できんいうて断った」
以上の竹中自身の証言によると、意外な事に文子が一度は、山本広を四代目へと考え、それを竹中へ話していたという事が分かる。
また竹中は、山本広への協力を断ると同時に協力できない理由も述べたと思われる。そのあたりから文子も改めて考え直したのかもしれない。
もちろん生前の田岡が竹中を高く買っていたのは事実である。しかし竹中自身は自分の四代目就任へ向けて工作はしなかった。竹中はただ、山本広の四代目に「待った」をかけた。同じように山本広に不信感を持つ中山、岸本、宅見など当時の若手が中心となり竹中を四代目に就けるべく猛烈に巻き返しへと動き、文子へも強く働きかけた。
抗争に至る経緯
昭和59年(1984年)6月13日
竹中反対派により一和会が結成された。会長に山本広、副会長兼理事長に加茂田重政、幹事長に佐々木道雄、本部長に松本勝美。
同年7月10日
徳島県鳴門市で四代目山口組の襲名式が執り行われた。
和歌山県串本町の賭場で、山口組系松山組内岸根組々長の岸根敏春が、一和会系坂井組串本支部若頭補佐の潮崎進を刺殺。個人的な金銭貸借が原因だったが、山口組と一和会の間で起こった初めての事件である。
同年8月23日
執行部の強い意向で四代目山口組から「義絶状」が全国の友誼団体に送られる。
竹中正久は出て行った者たちは放っておけば良いと考えていた。
ところが執行部から提案され、事前に書面に目を通した。辛辣な文面を見た竹中はこの時、宅見ら執行部に「これを出すという事はどういう事か分ってるな」と念を押している。明らかに喧嘩に発展する事が予想できた。
この義絶状を出すに至った経緯としては、稲川会など友好団体から山口組を出た者らが結成した一和会と、どう付き合えばよいのかと問い合わせがあったためとされる。通常なら破門や絶縁など処分を明確に関係団体に通知するが、四代目山口組と盃関係がない者に対しては手続き上それができない。それならば、関係を断絶するという絶縁の意味合いを持たせた書面を出す事で、これに代えようという事になった。
抗争の激化
昭和60年(1985年)1月26日
一和会の襲撃部隊が竹中正久ら三人を銃撃。ボディーガード南力は即死、若頭中山勝正も4時間後に死亡、竹中は大阪警察病院に搬送され翌日死亡。
竹中正久が想像したとおり、前年出された義絶状に起因して暗殺部隊が結成された事が後の裁判で明らかになる。
この竹中正久の暗殺後、日本のヤクザ史上に残る大抗争に発展していく事になる。
ユニバーシアード休戦
昭和60年(1985年)8月
この年、神戸市では夏季ユニバーシアード大会の開催を控えていた。大会開催を危惧した元神戸市長の中井一夫の奔走に稲川会の石井隆匡も協力し、山口組と一和会は休戦に合意した。
同年10月27日
鳥取県倉吉市のスナックで、山口組系竹中組内杉本組内輝道会組員清山礼吉が女装して、一和会幹事長補佐赤坂進を呼び出し、輝道会組員山本尊章が赤坂進と赤坂組組員田中義昭を射殺した。清山礼吉は包丁で他の赤坂組々員を刺して重傷を負わせた。一和会幹部初めての殺害だった。
抗争終息への経緯
抗争終結には稲川会と会津小鉄会が中心となって尽力している。
山口組には稲川会が交渉し、一和会には会津小鉄会が交渉している。
昭和61年(1986年)から終結は提案されていたが、途中何度も頓挫し最終的に平成元年(1989年)までかかった。
昭和61年(1986年)2月
稲川会の稲川聖城総裁と石井隆匡会長が入院中の田岡文子を見舞い、山口組執行部と会って一和会との和解を打診した。稲川会からの打診に、組長代行の中西一男と若頭の渡辺芳則らは「山口組内を和解の方向でまとめる」と回答した。
中西は一年前の事件で殺された竹中組、豪友会、南組の了承を取ろうと考えたが、殺された四代目の弟、竹中武は岡山に拘置中で自分がでるまでその話は待って欲しいと保留にされた。
しかしこのころの山口組内には完全に抗争終結のムードが漂っていた。
しかし終結話が出た直後の2月27日、姫路市深志野の竹中正久の墓の前で、竹中組内柴田会組員の井垣道明と星山勲が射殺された。これで一和会との和解話は流れる事になる。
不調に終わった和解
同年5月21日
大阪市ミナミの路上で、竹中組内二代目生島組幹部北原智久と同組幹部大宮真浩は、タクシーで移動中の一和会副本部長中川宣治を射殺した。
前年10月の鳥取県倉吉市の一和会幹事長補佐赤坂進に続く二人目の一和会幹部の殺害だった。山口組ではこの竹中組の起こした二件以外に、一和会幹部の殺害には成功していない。
そしてこの事件を節目に再び抗争終結話が持ち上がる。
同年6月19日
竹中武が1年5ヵ月ぶりに保釈された。
抗争続行を主張する武に対して、組長代行の中西による説得は続いていた。
昭和62年(1987年)2月4日
直系組長会で執行部は竹中武に、山一抗争終結への意向を質した。
武は「直系組長会において終結に反対か賛成か皆で採決しよう」と提案。
しかし執行部は、武の提案通り採決しなかった。
同年2月8日
臨時の直系組長会が開かれ、直系組長86人が出席した。組長代行の中西一男は終結反対派を押し切る形で山一抗争終結の決定を指示した。竹中武はこの場では異議を唱えなかった。
同年2月9日
組長代行の中西らは上京し、稲川会の石井に抗争終結を伝えた。
石井は翌日10日、京都の高山登久太郎を訪問し、高山を通じて一和会に山口組の抗争終結決定を伝えた。山本広も一和会の山一抗争終結決定を高山に伝え取り敢えずは抗争終結という体裁は整った。
この後、竹中武は、執行部に一和会との抗争継続の意志を示し、山口組からの脱退を申し出るが、執行部は竹中武に思い止まるように説得している。
この終結に関して当時を知る者の話によると、とらえ方は二つあったという。
一つは抗争終結は本家の決定事項なので、抗争は終わったととらえていた者、もう一つは四代目の仇である一和会は今後も攻撃して当然と考える者。
しかし、6月になって抗争終結は一和会側から破られる事になった。
再度流れた抗争終結
同年6月13日
大阪府枚方市のレストランで、一和会系山広組内川健組々員横尾勝と今堀義浩が、食事中だった山口組系山健組内中野会(会長は中野太郎)池田一男副会長を射殺した。当初中野太郎は池田一男殺害を独立組織の砂子川組の犯行と勘違いし、砂子川組を攻撃し後に謝罪している。
ここから山一抗争が再燃した。
昭和63年(1988年)5月14日
神戸市東灘区御影で竹中組内安東会々長安東美樹らが山本広の自宅を攻撃するにあたり、警察官3人を銃撃し負傷させ、山本邸めがけ、てき弾を爆発させる。
これが山口組内でも評価する者と批判する者に分れた。面と向かって批判せずとも、渡辺もこの事件を批判し武の耳にも届いていた。
同年12月29日
渡辺芳則は竹中武を姫路に訪ね。武に執行部の増員を相談し了解を得た。また渡辺は武に、中西一男が一和会側と接触して山本広の引退工作を進めていることを話し、中西一男の山本広引退工作を止めてもらうように依頼している。武は中西一男の説得を引き受けた。
抗争終結と五代目体制へ
平成元年(昭和64年・1989年)2月27日
定例組長会で、竹中武の若頭補佐就任を決定。
ところで渡辺は前年武に依頼した、中西による山本広引退工作の阻止とは裏腹に、渡辺自身がこの間も終結工作に動いていた。会津小鉄や稲川会を通し山本広の引退と一和会解散もほぼ固まりつつあった。渡辺にとって抗争終結と五代目就任への準備は同時進行で進んでいた。
3月16日
若頭の渡辺芳則は大津市の会津小鉄会・高山登久太郎会長宅で、高山や稲川会幹部も立会いの下、一和会々長山本広と面談した。山本広は、一和会解散と引退を認める文書を、渡辺芳則に渡した。
同年3月30日
山本広は稲川裕紘に付き添われ、山口組本家を訪れた。山本広は山口組執行部に、自身の引退と一和会解散を告げ、竹中正久殺害を謝罪した。山本広は竹中正久の仏壇と田岡一雄の仏壇に線香を手向けて合掌した。
一和会はなくなり、これで山一抗争は終結した。