地道行雄

出生

大正11年(1922年)1月22日
神戸市兵庫区に生まれた。
兵庫尋常小学校を卒業後、三菱電機の工員として働く。

昭和16年(1941年)
姫路師団に入隊し、太平洋戦争においては中国に出征し、華北や華中の戦線を転戦する。

昭和21年(1946年)4月
陸軍兵長として復員し、その後は神戸市福原で自転車修理業を始めた。敗戦後、地元神戸の不良在日外国人と喧嘩を繰り返すようになり、山口組とも縁ができ組に出入りするようになる。

山口組入り

昭和22年(1947年)2月
三代目山口組々長となったばかりの田岡一雄から盃を受け若衆となった。

昭和23年(1948年)
国と各自治体により競輪と競馬が施行され、地元兵庫県でも競輪や競馬が開催されるようになった。山口組と同じ兵庫県下に地盤を置く地元組織、大島組、本多会、西海組、小田組、中山組らで神戸競輪場の警備、予想屋、売店、タクシー、自転車預かりなどのシノギを分け合った。

昭和25年(1950年)
公営ギャンブルにからんで諍いも起こり始めた。地道が神戸競輪場の仕事に食い込んだ事で西海組は地道に仕事の一部を奪われる格好になり、西海組々員ら数人が地道の自宅に殴り込みをかけた。自宅に一人でいた地道は、ドスで斬られて重傷を負ったが、日本刀で反撃した。

数日後、地道は自ら率いる地道組々員らに西海組の幹部を含む西海組々員7人を拉致させた。地道は拳銃を手に、組員数人を連れて西海組事務所に乗り込み、西海組々長と掛け合った。これにより神戸競輪場の警備などの仕事を山口組は西海組から手に入れた。

昭和30年(1955年)
安原政雄の後任の山口組若頭に就任。

小松島抗争

昭和31年(1956年)7月
翌年10月にかけて
小松島抗争が勃発。

組員の大量動員など、その後の山口組の全国進出の先駆けとなる事件だった。

昭和34年(1959年)6月
大阪で躍進していた柳川組々長・柳川次郎を舎弟にし、柳川組から福田留吉、園幸義、黒沢明らを地道組の若衆にした。

明友会事件

昭和35年(1960年)8月
明友会事件が勃発。

同年9月
鳥取県米子市の山陰柳川組々長・柳川甲録と小塚組々長・小塚斉を舎弟にした。

同年12月
地道の舎弟、柳川次郎を三代目山口組の若中に昇格させる。

このころ地道行雄は、関西で膨張を続ける柳川組を他府県に進出させることを田岡組長に提案し、田岡もこれを了承した事で柳川組が全国に侵攻するきっかけになったと言われている。

昭和36年(1961年)10月4日
鳥取県鳥取市に進出していた地道組舎弟の山陰柳川組の組員3人が、本多会若頭・平田勝市の平田会鳥取支部の菅原組々長・松山芳太郎を山陰本線鳥取発米子行きの夜行列車内で刺殺した。

この事件後、地道行雄の推挙を受け、柳川甲録と小塚斉は三代目山口組の若中となった。柳川甲録と小塚斉は、山口県から京都府にかけ日本海側地区の責任者に就任した。

夜桜銀次事件

昭和37年(1962年)1月16日
夜桜銀次事件(福岡事件・博多事件)が勃発。

同年8月
広島の打越会々長・打越信夫が田岡一雄の舎弟になった。

紫川事件

昭和38年(1963年)12月8日
紫川事件が起こる

岐阜抗争

昭和37年(1962年)12月14日
岐阜抗争が勃発。

昭和38年(1963年)
当時の国鉄三宮駅に、地下街「さんちかタウン」建設が計画され、建設工事にあたって山本健一が、さんちかタウン建設工事の用心棒を引き受けた。その後まもなく山本健一が逮捕され収監される事となり、吉川勇次と地道行雄が、さんちかタウンの用心棒を、山口組で行う事に決めた。地道行雄は、田岡一雄の舎弟・岡精義を通じて、建設を請け負った建設会社から用心棒代を用立てさせた。

昭和38年(1963年)1月15日
地道行雄は、岡山県児島市の熊本組々長・熊本親を舎弟にした。

同年3月
警察庁は、神戸の山口組、本多会、大阪の柳川組、熱海の錦政会、東京の松葉会の5団体を広域暴力団に指定した。

同年8月
三代目山口組々長・田岡一雄は山口組に「七人衆」を設置した。地道行雄、松本一美、藤村唯夫、松本国松、安原武夫、岡精義、三木好美が七人衆となった。

昭和39年(1964年)2月
警察庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、「第一次頂上作戦」と呼ばれる暴力団全国一斉取締りを開始した。

警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。神戸の山口組、本多会、大阪の柳川組、熱海の錦政会、東京の松葉会、住吉会、日本国粋会、東声会、北星会、神奈川の日本義人党。

同年3月
地道行雄は、日本国粋会々長・森田政治と五分兄弟の盃を交わした。

第1次松山抗争

昭和39年(1964年)6月7日
第1次松山抗争が勃発。

山口組解散を唱える

昭和41年(1966年)
さんちかタウンの建設工事にからんで、恐喝事件として兵庫県警に逮捕される。

地道は11月に妻の父の葬儀のため4日間だけ拘留を解かれた。その期間に菅谷政雄や梶原清晴、小西音松らと会い山口組解散を提案した。

地道の意志は他の直系組長達にも伝わっていたが、全員が山口組の解散に同意していた訳ではなかった。特に山本健一は地道の公判記録にも目を通し、地道の供述内容に田岡自身が金銭の受け渡しに関わっているという部分を目にし、激怒していた。

入院中の田岡不在で開かれた直系組長会では、地道の根回しもあって多数決では解散に賛成する意見が解散派を上回った。しかし病床にある田岡が頑として解散を否定していた事もあり、山口組解散の話は立ち消えとなった。

田岡が解散を否定した事で、解散派の先頭に立っていた若頭の地道は立場をなくし、同時に田岡からの信頼も失う事となった。

昭和43年2月7日
田岡一雄は、地道行雄を若頭から解任した。

昭和44年(1969年)4月27日
地道は体調を崩し自宅で吐血した。妻が110番通報しパトカーで搬送されたが、5つの病院が拒否し受け入れ先が見つからなかった。地道の妻は田岡一雄の妻であるフミ子に依頼し、地道はようやく関西労災病院に入院した。末期の肺ガンだった。

同年5月15日
地道行雄は関西労災病院で死亡。
享年47。

三代目山口組の全国進出の指揮を執り、組織の巨大化に多大な貢献をした地道だったが、山口組の解散を唱えた事で、最終的には組長の田岡や組の存続派の反感を買った。若頭を下ろされ舎弟に直っていた地道が率いた地道組の跡目継承は行われず、地道組若頭の佐々木道雄が佐々木組として田岡一雄の直参に直った。