二代目竹中組復活の正当性

先日六代目山口組において竹中組の名跡復活が発表されたという。

二代目竹中組として、これまでの二代目柴田会々長だった安東美樹が就くことになった。
承知のように初代竹中組々長は竹中正久で、正久が四代目山口組を襲名後は弟の竹中武が率いていた。ただこの時弟の武は二代目竹中組を名乗らず、初代竹中組の副長として独自に率いていた岡山竹中組と兄の正久が率いた竹中組を統合したものとして、あえて二代目という認識を避けた。

当時二代目竹中組という名乗りを避けた理由を武は語っていないが、その時はまだ姫路事件で長期服役中だった者がおり、その者に二代目竹中組を継がせたかったのではないかという話だ。
しかしこの人物が出所した時、竹中組は山口組を離れていた。そして武は出所したこの人物を一度は竹中組の若頭に就けたが、その後破門した。

この頃竹中武はジャーナリストの取材を受け、当時山一抗争で服役中だった安東美樹の名前を上げ、安東が出所した折にはに竹中組を譲ってもよい。また安東の意志によっては竹中組を山口組に戻しても良いと発言していた。しかし安東は山一抗争でヤマヒロ邸襲撃事件を起こした後は逃亡し、その逃亡中に竹中組が山口組を離脱した事により自分の籍を竹中組から一心会に移していた。その後安東は逮捕されたが、この武の発言があった時も服役中であり当然一心会のままだった。

そして安東美樹が出所する前に竹中武は亡くなった。

安東美樹は2010年に出所して一心会に復帰し、その後直系組織の柴田会の二代目を襲名し六代目山口組の直参に直った。

そして今回安東美樹の二代目竹中組襲名によって、27年振りに竹中組の名前が山口組に戻ってきた。

竹中組が山口組を離脱した時には、五代目山口組は徹底攻撃を繰り返して竹中組の存続を認めなかった。多くの竹中組傘下団体は山口組系列へ移籍し、竹中組に残留した者には山口組により命を奪われた者もいた。六代目体制が発足した時には若頭の高山が竹中組の山口組への復帰を交渉したが、条件が合わず武に話を蹴られる格好になった。この事で若頭の高山は改めて竹中組との交際厳禁を通達した。

ここへきて竹中組の名跡復活にどれほどの意味があるのか分らない。

安東美樹は山一抗争の功労者に違いない。ヤマヒロ邸襲撃に大きな効果があった事は間違いない。しかし安東が上げた「効果」以上に「一本」をとった者もいる。当時の一和会の大物のタマ殺りに成功した者は誰もいないが、かろうじて一和会直参二人のタマ殺りには手が届いた。一和会幹事長補佐の赤坂進と一和会副本部長の中川宣治だ。赤坂進は竹中組内の杉本組で、中川宣治は同じく竹中組内の生島組だ。そして竹中組が山口組を離れた時、杉本組は宅見組へ生島組は山健組へと移籍した。他にも当時の竹中組を支えた多くの中枢組織はそれぞれ山口組系の二次団体へと分散され吸収された。

杉本組や生島組それぞれに安東のように身を投げ出した実行犯がいる。中川宣治を射殺した生島組の二人の実行犯のうち一人は山一抗争の功労者として賛美される事なく出頭前に自殺している。

山口組によって瓦解した竹中組の名を今山口組に改めるという事に意味はあるのだろうか。また安東美樹のネームバリューは確かに大きいが、彼だけが竹中組最大の功労者という訳ではない。一和会の直参二人を殺ったのは、いずれも竹中組の直参でもない末端組員らだ。

竹中組の名跡復活が、安東ら当時山一抗争で体を賭けた者達の悲願で、それに応える形での復活であれば話しは美しい。しかし山口組本家主導による名跡復活で、象徴的人物として安東美樹を擁立したのであれば、過去の経緯を振り返ると中身が伴わない気がする。本当の意味での竹中組は過去の歴史の中にしかない気がする。