司忍
人物エピソード
司忍という名前は本名ではなく、いわゆる渡世名。
由来には諸説あるが、早世した親族の名前から
由来したものではないかという説がある。
ヤクザの最高位にまで上り詰めながら名古屋の弘道会時代から生活や
食事も質素で知られる。日頃から健康にも気を使い、肉体鍛錬も欠かさず、
その事について聞かれた時こう答えている。
「やっぱり体が健康じゃないと、体が不健康やと人間考え方も
おかしくなって来ると思うからね」
舎弟頭の入江禎によると、司忍は60代になっても冬はスノーボードに出かけて
いたという。この年代でそういう事が出来るのは、日頃からの鍛錬が普通の人
とは違い、とても我々が真似できるような事ではないと言っている。
また、若い者が組長用に高級なスリッパを用意しても使用せず、安いものでも
気に入った物を大切に使用するという。逆に若い者の方が司組長より良い
スリッパを履いていると語っている。
もともと弘道会々長の頃から若い者を大事にし、特に組の事で服役している者
への配慮は手厚かった。弘道会ではお中元やお歳暮が届くとまずは服役者の
家族の元へと届けられる。またその家庭に小さな子供がいれば、誕生日など
にはプレゼントも届けられていたという。
物腰も柔らかく、まだ六代目に就任する前の五代目時代、自身の率いる大勢力を
カサに着ることもなく、他の直参に対しても常に頭が低かったという。
自分に都合よく行動するわけでなく、何事も公平に見る事が出来る人物と
評価も高い。
また阪神大震災の時には神戸へ入り、自ら人のために一生懸命大量の
焼きそばを作っていたという。この様子を目撃した当時山健組で部屋住みをして
いた者によると、親分にこんな事をさせて大丈夫なのかと我が目を疑ったという。
山健組ではありえない。そう思うと同時にヤクザの親分も様々で、司忍という
親分は立派な親分だなと尊敬するようになったという。
出生
昭和17年(1942年)1月25日
大分県大分市生まれ。大分県立水産高等学校を卒業後は地元の水産会社に
就職している。その後大阪に出て愚連隊のような生活を送る。この頃大阪で
司忍と行動を供にしていた兄貴分に当たる人物は、その後山口組系北山組や
宅見組に籍を置き山一抗争時の一時期には微妙な立場にあった。
現在も大阪の堺に存命中で、六代目就任後も交流はあり、大阪で行動を供に
したのはごく短い期間だったが、司忍は昔と変わらずアニキと呼びかけるという。
名古屋へ
昭和37年(1962年)
大阪から名古屋へと移り住み三代目山口組系鈴木組の弘田武志の若い者になる。
その後鈴木組は解散し地盤を引き継いだ弘田組が三代目山口組の直系組織となる。司は弘田組内に司興業を結成する。
昭和44年(1969年)
東陽町事件
大日本平和会系山中組の小牧支部に近い人物が弘田組系神谷組に加入し、
その事で山中組が神谷組の事務所に殴りこみをかけ、神谷組々員2人が死亡、
2人が重軽傷を負った。この事件で弘田組は大日本平和会と激しく対立し、
大日本平和会の春日井支部長、豊山一家豊山王植組長を刺殺する事件が
起こる。この事件で司忍は首謀者として懲役13年、司興業若頭の土井幸政は
13年、弘田組系佐々木組の高山清司(後の二代目弘道会々長)は4年を
言い渡される。
このころの愛知県は独立系組織が多く、関西系の山口組にとって名古屋は
一般的な見方として「難しい土地」とされていた。当然山口組系の弘田組は
地元組織と多くの衝突を繰り返している。
司忍が宮城刑務所を出所したのは、山口組の三代目組長田岡一雄が亡くなった
ころだった。このころ、司忍の親分弘田武志は田岡の後継者とされる山本健一と
関係が深く、山本が四代目を継いだ後も当然山口組に参加するはずだった。
ところがその山本健一が四代目を継ぐ事なく田岡の後を追うように亡くなった。
山本健一亡き後、弘田武志は姫路の竹中とは親交が薄く、山本広と親交が
あった。いよいよ四代目に竹中が決まろうかという時、弘田は山本広支持を
表明し、組が割れるなら山本広に付いて出ると明言していた。
このまま司忍は一和会系弘田組の司となるはずだった。
ところがそうはならなかった。司忍は親分弘田武志を懸命に説得し、弘田組は一和会に加わらなかった。四代目山口組にも加わらず弘田武志は組を解散しヤクザを引退した。そして司忍は弘田組の地盤を引き継ぎ新たに弘道会を結成し、四代目山口組の盃を受けた。弘道会の「弘」の字は弘田から来ている。
不覚にも引退させてしまった我が親分への気持ちあっての事であろう。
四代目山口組直参へ
こうして四代目山口組の発足と同時に司は直参となった訳だが、安堵は訪れない。
昭和60年(1985年)1月
山口組四代目組長竹中正久は半年足らずで、山口組から分裂した一和会の放ったヒットマンの手によりあっけなく暗殺された。
同年2月
弘道会系菱心会組員が、一和会系山広組内後藤組の若頭吉田清澄を拉致し、後藤栄治組長の居場所を吐くようにと暴行を加えた。この後藤組の組長後藤栄治は竹中襲撃を直接指示した容疑で全国指名手配となっていた。
これを受け後藤栄治は、後藤組を解散させた。この事件の実行犯で当時25歳だった竹内照明は現在弘道会の三代目会長となっている。
同年4月
弘道会内薗田組幹部ら3人が名古屋市のレストランで、三重県四日市市の一和会系水谷一家隅田組幹部中本昭七と組員島上豊を拉致した。これも解散を迫ったが、隅田組は逆に弘道会系菱心会内鈴木組組員一人を拉致した。
翌日、名古屋市中村区の赤十字病院の駐車場で拳銃で撃たれた男二人が発見された。中本昭七は死亡。島上豊は重傷だった。逆に拉致されていた弘道会系菱心会内鈴木組組員は伊勢市民病院前で手足に数発の銃弾を受けた状態で発見された。
昭和63年(1988年)4月
北海道札幌市で、弘道会系司道連合幹部佐々木美佐夫ら2人が、喫茶店を出て来た一和会系加茂田組内二代目花田組丹羽勝治組長を銃撃。マンション内に逃げ込んだが更に追いかけエレベーターホールで射殺。
五代目山口組で執行部入り
平成元年(1989年)
山一抗争が終結し五代目山口組の発足と同時に若頭補佐に就任。
平成2年(1990年)
山波抗争
事件の発端は、波谷組の岩田好晴から勧誘を受け、加入の約束をしていた安井武美が約束を反故にし弘道会系西岡組に加入した事だった。
6月28日、未明の福岡市西区で岩田の若い者が安井武美を射殺した。
ここから波谷組の拠点である大阪を中心に山口組を挙げての全面攻撃となり、
大阪市住之江区では、以前住んでいた波谷組幹部と間違って一般人を射殺する
事件も起こっている。
12月7日、抗争のきっかけを作った事を気に病んでいた岩田好晴が、ロシアンルーレットで自分の頭を拳銃で撃ち、死亡した。
12月11日、波谷組々長波谷守之の「ヤクザから引退しないが、自身の若衆を手放す」という手打ちの条件を司忍は了承し、山口組と波谷組は手打ちした。
12月27日、波谷守之が、名古屋市の弘道会本部を訪れ、司忍に事件を詫びた。
平成3年(1991年)
名古屋抗争
元々中京地区には反山口組の色が濃い中京五社会があり導友会、稲葉地一家、瀬戸一家、平野一家、運命共同会(鉄心会、中京浅野会、平井一家)が加入して
いた。この中の鉄心会の者が、運命共同会に対して、弘道会への加入を求めた。運命共同会はこれを拒否し、これら鉄心会組員全員を破門にした。
1月26日、弘道会は、愛知県名古屋市千種区の路上で、弘道会への加入を
拒否していた運命共同会鉄心会組員を銃撃し、重傷を負わせる。
1月28日、鉄心会伊藤組々長の自宅兼中古車販売会社に、銃弾を撃ち込んだ。
1月30日、鉄心会の関係企業の不動産業者2人を、乗用車内で射殺した。
2月12日、弘道会と運命共同会の間に和解が成立した。
これをきっかけに、中京五社会は崩壊し、瀬戸一家、平井一家は五代目山口組の
傘下へ入り、中京浅野会、平野一家、導友会、稲葉地一家は、弘道会傘下となり、愛知県下における山口組の勢力図が一気に塗り変わった。
銃刀法裁判
平成9年(1997年)8月28日
神戸で山口組若頭宅見勝が中野会の手により暗殺された。
翌9月、大阪のヒルトンホテルで、司忍に付いていた弘道会組員が拳銃の不法所持で現行犯逮捕される。そこから2ヵ月後の11月になって護衛の組員に拳銃を持たせていたとする容疑で指名手配され、翌平成10年(1998年)6月に出頭した。
平成11年1999年(1999年)7月、10億円の保釈金で保釈される。
平成13年(2001年)3月、一審の大阪地方裁判所で無罪判決。検察が控訴。
平成15年(2003年)
北関東抗争
4月、弘道会系東海興業舎弟頭補佐の大栗組と住吉会系住吉一家親和会田野七代目が栃木県内の運転代行業の利権を争い話しがつかず決裂。
その後、田野七代目組員が大栗組事務所に保冷車を突入させた事で全面抗争に。
栃木県警は大栗組事務所と田野七代目事務所に、宮城県警は仙台市内の東海興業事務所に、それぞれ暴対法に基づく組事務所の使用制限の仮命令を出す。銃撃戦は名古屋にも飛び火し、5月には弘道会本部に暴対法に基づく組事務所の使用制限の仮命令を出すにいたる。その後弘道会本部から、傘下組織に抗争中止命令を出し、6月に入って親和会と和解し抗争終結。
平成16年(2004年)2月、二審の大阪高等裁判所で懲役6年の逆転有罪判決。
判決後収監されたが、10億円の保釈金で即日保釈された。上告する。
六代目襲名へ
平成17年(2005年)3月
弘道会々長を髙山清司に譲って二代目弘道会総裁となり、自らは二代目弘田を名乗る。同年5月、五代目山口組若頭に就任し、7月には六代目山口組々長に就任した。山口組六代目を継承すると、二代目弘道会々長髙山清司を若頭に就ける事で初代弘道会体制をそのまま山口組本家に持ち込んだ。新たに「幹部」ポストを創設し、また、山口組から消えていた倉本組と小西一家の名跡を復活させ、東京の四代目國粹会々長工藤和義を顧問として迎え、山口組初となる東京都内での直系組織を誕生させた。
2005年11月29日
上告が棄却され、懲役6年の実刑判決が確定。同年12月5日に出頭して大阪拘置所に収監され、府中刑務所に移監された。
2011年4月9日、未決拘留を差し引いて5年4ヶ月で満期出所した。