山口組 四代目組長 竹中正久

竹中正久

昭和8年11月30日(1933年)、八男五女の七番目、三男として
兵庫県飾磨郡御国野村(現在の姫路市)に生まれる。

長男と次男は堅気。七男は産まれてすぐに亡くなった。

三男・正久以下の男兄弟、四男・英男 五男・正 六男・修
八男・武までの全員が後に極道となる。

祖父が助役、実父が村議会議員を務めた事もある良家だった。

幼少の頃、自分の親戚が村のある者に突き飛ばされた事を知り
刀を持ち出して相手の畑を滅茶苦茶に荒らした事がある。

昭和21年(1946年)、実父の龍次が死去。

難関の旧制姫路市立鷺城中学校に通っていた正久は中退した。

昭和23年(1948年)、次男・良男が死去。

昭和26年(1951年)、17歳の時、鑑別所を経て
奈良特別少年院に送られる。

この時期三代目山口組宇野組組長・宇野加次の息子
宇野正三と出会い兄弟分の約束を交わす。
これが後に正久が山口組に入るきっかけとなる。

昭和28年(1953年)6月、正久19歳の時少年院を退院。

昭和32年(1957年)、公務執行妨害などで神戸刑務所に
1年間服役。このとき自身の配下の恐喝罪も正久が背負った。

昭和35年(1960年)、地元の不良を糾合し竹中組を結成。

山口組への加入

少年院で知り合った兄弟分の宇野正三の父、三代目山口組の
宇野組組長・宇野加次が正久の山口組入りを三代目山口組の
若頭・地道行雄に推薦した。

これを姫路の山口組系、湊組・湊芳治組長
と渋谷組・渋谷文男組長が反対した。

最終的には地道が親分の田岡一雄に正久を推挙。

昭和36年(1961年)12月13日、田岡から盃を受け
三代目山口組の直参となった。

この時正久は28歳。当時の山口組本家の
月会費は二千円だった。

昭和37年(1962年)1月、博多事件発生(夜桜銀次事件)

大手前の喫茶「ブラジル」で竹中組から
福岡へ行くメンバーをくじ引きで決める。

警察との攻防

福岡県博多での滞在先の旅館に福岡県警が踏み込む。

令状のない県警に対し正久は「令状を持って来い」の一点張りで
一歩も部屋に入れなかった。

そのため他の山口組系の者が任意同行される中、
数時間に及ぶ押し問答の末竹中組の者だけが手錠を
かけられた状態で連行された。

この福岡事件では山口組系105人が逮捕され、
そのほとんどが凶器準備集合罪に問われた。

しかし竹中組では全員が正久の指示通り
「ケンカに来た訳やない。葬式に来たんや」と押し通した。

取調べ中に検事が正久の親分を「田岡」と呼び捨てに
した事に立腹し、机を引っくり返し暴れる。

拘留二十二日、夕方ギリギリまで竹中組の全員の身柄を
押えたまま、検事は正久に迫った
「竹中組から誰か一人責任者を出してくれ。
出さないなら否認のまま全員起訴する」

正久は自ら責任者として配下を庇い、竹中組では正久だけが
起訴された。結果的には正久以外は二十二日で釈放され、
竹中組の被害を最小限にとどめた。

同年9月、福岡拘置所を保釈出所。

この年、竹中組では正式に盃事が執り行われた。

武が南地で経営していた「25時」を譲り受け
竹中組の事務所が発足する。

この頃に弟の武が岡山に移住する。

昭和39年(1964年)2月、正久の母愛子が膵臓癌で他界。
葬儀には田岡夫人フミ子も参列。

十二所前町に竹中組の本部事務所兼正久の居宅が竣工。

同年6月、四男英男が死去。

この年四国で松山事件が勃発。

昭和40年(1965年)5月、田岡が渋谷のセントラル病院に緊急入院。

昭和41年(1966年)、野球賭博で逮捕、一年間服役。

昭和42年(1967年)、通りがかりの男と竹中組組員が
トラブルとなり竹中組事務所のガラス戸が割られる。

このトラブルの件で被害を受けたはずの竹中組が家宅捜索になり、
正久側が捜索の立会いに激しく抵抗する。

正久側が立会いを拒否したため捜査側は、公務員である
消防署員を呼び出し、これを立会人に合法的に捜索が
開始されようとしていた。

そこで正久の意を受けた組員が立会人にこう切り出した。

「事務所には高価な物もあるので後々面倒が起こっては困る。
名前や住所を聞かせてくれんか?」

これには呼び出された立会人も尻込みする事になり、
結果的に捜査員を数時間立ち往生させる。

最終的には姫路署から依頼を受けた湊組組長・湊芳治が
正久の説得にあたり、正久も湊の顔を立て、捜索に応じた。

昭和44年(1969年)12月、地元組織旧本多会系の小川会との
抗争などで凶器準備集合罪で逮捕。

実はこの取調べ中に福岡事件の上告を取り下げ刑を確定させた。
これは正久流の法の裏技とも言えるテクニックで、
確定させたこの期間は、留置場で取調べが続いていた。
そのため実質的には刑務所には務めず、取り調べ期間中に
確定させた刑期を消化してしまう一石二鳥のテクニックだった。

昭和46年(1971年)6月、釈放。

山口組執行部へ

同年、山本の若頭就任に伴い37歳で若頭補佐に就任する。

この当時の山口組本家の月会費は5万円だった。

昭和47年(1972年)、貝崎事件が起こる。

竹中組が山口組に加入して初めての殺人事件だったが、
実は前年ひそかに白龍会組員を殺害し仁寿山に埋めるという
事件が起きていた。

昭和48年(1973年)、前年行われた総長賭博にからんで山口組、
稲川会の大物幹部が多数逮捕されるが、事前に正久の発案で
その日付を最後まで伏せておくよう根回しされていた。

その甲斐あって兵庫県警は賭博開帳日を特定できず、
全員が無罪放免となり罪に問われる事はなかった。

昭和50年(1975年)7月、ジュテーム事件。
大阪府豊中市で山口組系佐々木組傘下の3人が
松田組系溝口組傘下組員らに射殺される。
いわゆる大阪戦争の勃発。

昭和51年(1976年)、日本橋事件。
山口組系佐々木組傘下組員が松田組系村田組内
大日本正義団会長吉田芳弘を射殺

昭和53年(1978年)2月、昭和44年の凶器準備集合罪の
上告を最高裁が棄却懲役2年の実刑判決が確定し、
54年9月まで神戸刑務所に服役。

同年7月、ベラミ事件。
この時正久は服役中だった。

同年年11月、山口組側から「抗争終結」を宣言。

昭和54年(1979年)、正久の服役中に長兄の龍馬が死去。

昭和40年代後半に八男・修も死去しているのでこれで
竹中兄弟は三男・正久、五男・正、八男・武の三人となる。

昭和55年(1980年)1月、津山事件。
岡山県津山市で二代目木下会系平岡組組員が竹中組の
小椋義政の事務所を襲撃。小椋とその時偶然居合わせていた
山口組系小西一家傘下組員水杉義治の二人を射殺した。

同年5月、姫路事件。
姫路駅前で二代目木下会会長高山雅裕を射殺。

昭和56年(1981年)3月、三代目となっていた木下会と手打ち。

昭和56年(1981年)7月、三代目山口組組長田岡一雄組長死去。

昭和57年(1982年)2月、三代目山口組若頭山本健一死去。

同年3月、脱税容疑で竹中組や関係先
約30ヶ所の家宅捜索を受ける。

若頭補佐の山本広が組長代行に就任。

田岡未亡人の推薦により正久が若頭に就任。

当初正久は弟の武の助言もあってこれを断り、代わりに高知の
中山勝正を推薦している。しかし田岡フミ子に押し切られる形で
結局は若頭を引き受ける事になる。

同年8月、正久は脱税容疑で逮捕される。

同年9月5日、定例会で組長代行の山本広が
「四代目をやるよう推された」と宣言し
一部の者から猛反対を受ける。

昭和58年(1983年)6月、正久が保釈出所。

山口組四代目襲名

昭和59年(1984年)6月5日、直系組長会に田岡フミ子が出席し、
竹中正久を四代目に指名。

正久の四代目に反対する者達が山口組を脱退し、
山本広を会長に一和会を結成。

同年7月10日、徳島県鳴門市で継承式が執り行われた。

この頃ある舎弟が襲名のお祝いに500万円を差し出したが、
受け取らずに持ち帰らせている。

同年8月、執行部の強い意向で四代目山口組から
「義絶状」が全国の友誼団体に送られる。

勢力数こそ当初は一和会が山口組を
上回っていたが、その数は徐々に逆転していった。

一和会側は密かに竹中暗殺を計画し、
同年9月には暗殺部隊を結成。

昭和60年(1985年)1月9日、5年前の賭博の事件で
上告が棄却され懲役5ヶ月が確定した。

未決拘留日数を差し引かれ実際は50日程の服役になる。
確定後には出頭して服役しなければならないが、これを引き延ばし
2月に入ってから服役するはずだった・・・

最後の日

昭和60年(1985年)1月26日、この日正久は午前中神戸の
山口組本部に隣接する新本家上棟式の後、午後には
京都府八幡市に入院する田岡フミ子を見舞った。

夕方大阪ミナミで食事をしたあと若頭の中山が他の者達を
帰らせた。この時点で正久に付いていたのは、若頭の中山勝正と
南力、そして運転手の南組組員のみになる。

しかしこの時点では過剰な警護を嫌う正久に気付かれぬよう
中山の豪友会の組員が数名離れてガードをしていた。

その後一行は堂島のクラブへ繰り出した。

午後9時前 堂島のクラブを出て一行は南組の車に乗り込んだ。

助手席には南、後部座席には正久と中山が乗り込んだ。
行き先は吹田市江坂。江坂には正久の愛人が
住むマンションがあった。

部屋はマンションの5階・・・

そして同じマンションの2階には
一和会のヒットマンたちのアジトがあった。

正久にとってこの世で一番危険な場所となっていた。

マンションに到着すると南は運転手の松崎にしばらく待機するよう
言いおき、正久、中山、南の三人がエントランスを抜け
エレベーターホールへと消えていった。

松崎が車をバックさせていると、立て続けに銃声が鳴り
続けざまに青白い閃光が走った。

エントランスから正久がよろけながら出て来て
車と反対側へと逃れるのが見えた。
それを追うように男が二人マンションから飛び出してくる。

男は車に気付き拳銃を構えた。
アクセルを踏み込み男をはね飛ばし、正久の後を追い
真横につけ抱かかえるように車に乗せた。

正久は気丈にも「大丈夫や」と言った。

松崎は南組事務所に自動車電話で
危急を知らせ救急車の手配を頼んだ。

「親分どこをやられました?」

「胸と腹や」

はっきりとした口調だった。

南組事務所に到着し救急車に乗せられた。
正久は横たわったまま、自分で腕時計をはずして
付き添った組員に預けた。

救急車が走り出したその時、正久は「体を起こせ」と
つぶやくように言った。
これが正久の最期の言葉となった。

狙撃されてから26時間後、
昭和60年(1985年)1月27日午後11時25分 死亡が確認された。

戒名、義照院釈顕正大居士

津山事件 昭和55年(1980年)1月

姫路事件 昭和55年(1980年)5月

山一抗争 昭和59年(1984年)~平成元年(1989年)

山一抗争(時系列)

田岡フミ子は四代目にヤマヒロを推挙していた?

竹中武

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