髙山清司

昭和22年(1947年)9月5日愛知県津島市の出身。

弘田組内 佐々木組の若い者へ

地元の高校へ進学し、野球に打ち込むが喧嘩を理由に高校を中退。
その後の不良生活中に、三代目山口組系弘田組の佐々木組々長・佐々木康裕と縁を持ちヤクザの世界へ入る。

東陽町事件

昭和44年(1969年)
旧本多会系組織の大日本平和会系山中組との間で、組員の引き抜きを原因としたトラブルから弘田組系神谷組が襲撃され、神谷組々員2人が死亡、2人が重軽傷を負う事件が起こり、抗争に発展。弘田組は報復として大日本平和会系の豊山一家豊山王植組長を刺殺する事件を起こす。
事件当時は髙山の親分(佐々木康裕)は服役中だったが、この事件では親分佐々木の兄弟分、当時の髙山から見てオジキにあたる司忍と行動を供にし、この報復事件で髙山は4年の実刑判決を受けて服役した。
司忍は首謀者として懲役13年、司興業若頭の土井幸政は13年服役した。

人物

出所後、髙山の所属する佐々木組は菱心会と名称を改め、髙山は同会の理事長に就任し、自らは髙山組を結成した。

髙山が仕えた親分の佐々木康裕という人物は名古屋では知られた豪傑で、遊びも派手で豪快な人物だった。そのため博打で大負けする事もあったという。
そんな時でも親分の佐々木に下手を売らすまいと、キッチリと処理するのも髙山だった。佐々木からの信頼も絶大で、例えば破門や絶縁、組員の処遇についても髙山の意見だけには、耳を傾けたという。

髙山が一番嫌う事は、自分の親分に恥をかかせる事だと言われている。

昭和51年(1976年)
菱心会の理事長という肩書きのまま、弘田組の直参に取り立てられる。

昭和55年(1980年)
弘田組の若頭補佐に就任。

昭和56年(1981年)7月
三代目山口組々長田岡一雄死去。

昭和57年(1982年)2月
三代目山口組若頭山本健一死去。

四代目山口組の組長に竹中正久が決まろとしていた時、弘田組々長の弘田武志は山本広の支持を表明し、組が割れるなら山本広に付いて出ると明言していた。ところが、司忍らの説得により一和会に加入する事なく組を解散し、引退した。

弘道会

新たに四代目山口組が発足すると、司忍が弘田組の地盤を引き継ぎ弘道会を発足させた。髙山は初代弘道会では若頭補佐に就任した。初代弘道会では髙山の元の親分佐々木康裕も弘道会相談役として加わっている。

山一抗争での弘道会

昭和60年(1985年)1月26日
一和会の襲撃部隊が竹中正久ら三人を銃撃。ボディーガード南力は即死、若頭中山勝正も4時間後に死亡、竹中正久は大阪警察病院に搬送され翌日死亡。

同年2月19日
弘道会内菱心会組員竹内照明(後の弘道会三代目会長)らが一和会系後藤組の若頭吉田清澄を拉致し、後藤組の解散を迫った。組長の後藤栄治は二代目山広組の若頭として、石川裕雄と供に竹中暗殺を指揮した人物。
これに対し後藤は組を解散し、山口組本部に「詫び状」を送付。警察への自首を約束した。菱心会は拉致した吉田を解放したが、後藤栄治は自首せず逃亡。

ヤクザの世界では、殺す事と引退解散させる事は同等の価値があり、
弘道会のこの事件は高く評価された。

同年4月12日
弘道会内薗田組幹部ら3人が名古屋市のレストランで、三重県四日市市の一和会系水谷一家隅田組幹部中本昭七と隅田組々員島上豊を拉致した。2月の竹内らの事件と同様に解散を迫ったが、水谷一家は解散を拒否し反撃に出る。
水谷一家は弘道会内菱心会の鈴木組々員一人を拉致した。双方拉致合戦になり、薗田組は中本昭七を射殺し、島上豊に重傷を与えた。
一方で逆に拉致されていた菱心会内鈴木組々員は、伊勢市民病院前で手足に数発の銃弾を受けた状態で放置されていた。

この時の水谷一家は、その後弘道会傘下となっている。
隅田組は水谷一家を離れ倉本組傘下に入り、現在三重友会に名称を変えている。

山一抗争 昭和59年(1984年)~平成元年(1989年)
 ・山一抗争(時系列)

山一抗争終結、五代目山口組体制へ

平成元年(1989年)
弘道会若頭に就任し、五代目山口組体制下では弘道会として
大きな抗争事件が三つある。

山波抗争 平成2年(1990年)

名古屋抗争 平成3年(1991年)

北関東抗争 平成15年(2003年)

弘道会二代目へ

平成17年(2005年)3月
司忍が二代目弘田を名乗り、弘道会を離れる事で、弘道会の二代目を襲名。

同年7月
司忍が六代目山口組々長に就任すると、六代目山口組の若頭に就任。

直参昇格からわずか数ヶ月で本家若頭へ就任という事で、前例のないスピード出世といわれているが、このころ六代目組長の司忍は銃刀法裁判の上告中で、服役が予想されていた。このことから司忍は留守を任せられる最も信頼する高山を若頭に就けたとみられる。

予想通り司忍に有罪判決が下り服役する事になった後は、髙山が本家を仕切ることになった。髙山のやり方を巡っては他の直参から多くの不満も出る事ととなり、新体制では後藤忠政ら多くの直参が処分される事につながった。

批判

現在の髙山を中心とした執行部体制には、枝の組織からも批判が多い。
勝手な行動を許さず、厳格な管理体制で窮屈な事は確かだと思うが、防排条例などヤクザを取り巻く環境が、過去にないほど厳しくなっている現在、他に方法があるだろうか。山口組という組織を維持していく事を考えると、放任し皆を自由にさせる事がどういう事になるのかを考えると、髙山が間違っているとも言えない。
本人も自分の方針に批判があることは、十分に承知していると思われる。
おそらく髙山は皆に好かれることより、嫌われる事を承知で自分のポストに責任を持っている。自分を若頭に据えた親分の司忍に恥をかかせるくらいなら、自分は嫌われてもいいと思っているのだろう。そもそも若頭を引き受けなければ、本人ももっと自由なはずである。
先進的な事を取り入れると内部に不満が出るのは組織の常である。
工藤会の例を見るまでもなく、警察や社会に対して好き勝手にやりたい放題すると、ヤクザ組織はいずれ持たなくなる。今のベストよりも一歩先、二歩先の将来へ向けた手を打つしか生き残る道はない気がする。