在日韓国人として
1923年5月
韓国釜山で生まれた。
1930年
先に来日していた父親の元へ、母、弟とともに大阪府豊能郡へ来日した。
1940年
阪急電車豊中駅前で、六人組と少年一人のケンカの仲裁に入った。この時一人で六人を相手にケンカしていた少年が谷川康太郎だった。
1941年
柳川家は半ば強制労働に駆り出され一家で、大分県中津市に移り住んだ。
1945年
敗戦後、柳川家は韓国へ帰国を決めるが、柳川次郎は下関で喧嘩になり警察に逮捕された。その後、釈放されたが乗船するはずの船は既に出港していた。ここから柳川次郎は日本で生きていく事になる。その後、豊中市に戻り神戸の闇市などでヤミ物資の強奪を繰り返した。この頃谷川康太郎と再会し行動を共にするようになる。同じ頃、菅谷政雄(通称ボンノ)とも面識を持ち菅谷の率いる国際ギャング団にも加担した。
1946年
強盗罪で逮捕された柳川は加重逃走も加算され鳥取刑務所に服役した。
1948年
谷川康太郎は懲役12年の判決を受け、高松刑務所へ服役した。
1952年
仮出所した柳川は五島組系の博徒新井孝造の世話になり2ヶ月ほど賭場の雑用などを行った。
九州へ
その後大分県中津市に移り、山口組系のテキヤで吉富組々長吉富政男の客分となった。
1953年
柳川は大長組々長大長健一の舎弟となった。
この頃、吉富と大長の間に起きた揉め事の解決のため柳川は断指している。
九州時代に石井一郎と兄弟分になった。
再び大阪へ
再度、五島組系の博徒新井孝造の元へ行き堅気の仕事に就いていた。
しかしその後、柳川を頼って九州から野沢義太郎、福田留吉らが出てきた事もあり、大阪駅周辺を縄張りとしていた歌楽会々長・生田晴美と話をつけ、ダフ屋からショバ代を取り始めた。
1955年
歌楽会の要請で西宮市に本拠を置く諏訪組の友誼団体、高村組の抗争に加担し柳川一派が撃退した。これが縁で諏訪組々長諏訪健次の若衆となる。
1957年
柳川はショバ代を払わなかったダフ屋を恐喝した容疑で逮捕された。
そして保釈直後、柳川は諏訪組を絶縁になる。
この時の絶縁について後年も柳川は多くを語ろうとしなかった。
その後、酒梅組の梅野国生の客分となり西成に移り住んだ。
西成で柳川一派は、西成最大の売春暴力団鬼頭組から略奪行為を繰り返した。
1958年2月
柳川一派の秋良大豪が鬼頭組に拉致された。鬼頭組とは同系列だった梅野国生組長が、鬼頭組事務所に出向き拉致された秋良大豪の開放を交渉した。
長時間の交渉にしびれを切らした柳川一派8人は鬼頭組事務所に向かった。
柳川次郎、福田留吉、高信吉、倉本広文、斉藤登、松田重、武本ケ慧、福成信昭。
福成信昭はこの時、左腕を切断されたとされているが、晩年の福田と交流した者の話しによると後遺症は残るものの腕はあった。この事件で柳川は収監されたが、出所後に北区堂山町で、柳川組を結成した。
山口組へ
1959年
大野鶴吉率いる大野会と小競り合いを起こし、三代目山口組舎弟の中川組々長・中川猪三郎がこの仲裁に当たった。この事が縁となり中川猪三郎の仲介で、柳川は地道行雄と盃を交わして、山口組本家若頭の地道行雄の舎弟となった。この時に柳川組から福田留吉、園幸義、黒沢明らが地道組の若衆に直った。
1960年1月
西谷会と抗争。西谷会会員1人を殺害し、1人に重傷を与えた。
同年5月
枚方市の砂子川組系松尾組と柳川組系田中組が抗争。田中半次が松尾組組員1人を射殺した。
同年8月
明友会事件が起こる。この事件で山口組側は逮捕者84人を出し、その中で柳川組は24人を占めた。そしてこの年の12月、柳川組は三代目山口組の直系に昇格した。
山口組直系組織として
1961年
淡熊会系寺田組と抗争。
同年4月
松浦組系足立組と抗争。
同年4月、奈良県に進出。
同年11月
諏訪組系柏木組と抗争。
1962年1月
諏訪組系坂本組と抗争。
同年1月
京都に進出。
この年、和歌山県、石川県にも進出。北陸の本多会系紺谷組を傘下にした。
1963年9月
池田組系多賀組と抗争。
同年11月
枚方市で松尾組と抗争。
同年11月
富山県で起こった源清田一家と米山組の抗争へ応援部隊を派遣。
同年12月
長岡宗一と石間春夫と谷内二三男が柳川の舎弟となり、柳川組北海道支部の看板を掲げた。
同年12月
福井県の倉島組を傘下に収め、柳川組福井支部の看板を掲げた。
1964年
柳川は懲役7年の刑が決定的となった上告棄却の2日前、獄中で引退声明を出した。
正式に柳川組を結成してわずか5年。急膨張した柳川組はおよそ1700人の構成員がいたという。
二代目柳川組体制へ
柳川は二代目に谷川康太郎を指名していたが、ケンカのために地方へ出ている事も多い谷川に柳川組の幹部らは難色を示した。まとまらない柳川組に対して本家若頭の地道は柳川組二代目に清水光重を送り込む事を考え始めるが、清水を受け入れ難い柳川組幹部一同は、急速に谷川康太郎を二代目に推挙することでまとまった。
しかし二代目柳川組は山口組の直系のまま再出発はできなかった。
1964年7月
地道組の舎弟として谷川康太郎は盃を受けた。
その二週間後、田岡一雄から親子盃を受け谷川康太郎は本家直系となった。
さらにその翌日、二代目柳川組を襲名した。
殺しの軍団 柳川組解散へ
二次団体でありながら単独組織として、警視庁指定の全国広域五大暴力団に指定され、集中的な取締りを受け、柳川組は追い詰められていた。
1969年
柳川組系列で逮捕者を150人以上も出しており、幹部クラスも軒並み刑務所へ送られていた。そんな中、先代の柳川次郎が谷川康太郎に組の解散を打診した。
1969年
谷川康太郎は柳川の意向を受け入れる形で4月9日柳川組を解散した。
柳川と谷川は、本家に相談なく解散を決めたとして山口組から絶縁処分を受ける。
その後、2000人いた柳川組は解体され、柳川組四天王と言われていた野沢儀太郎、石田章六、金田三俊、藤原定太郎がそれぞれ山口組直参となった。
その後の柳川次郎
1973年
柳川は右翼団体亜細亜民族同盟を創立した。その後、佐野一郎に会長を譲り、自らは名誉会長となった。また、国際ボクシング連盟(IBF)初代アジアコミッショナーに就任し格闘技を支援した。日韓友愛親善会を設立し、日韓の親善にも尽力した。
1974年
柳川次郎は、アントニオ猪木らとともに、45年ぶりに祖国韓国の地を訪れた。
1987年4月
実業家に転身していた谷川康太郎が59歳で他界した。
1991年12月
柳川次郎は大阪で死去。享年68だった。
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