山健組時代
山本健一存命中の初代山健組において、中野太郎は山本健一の舎弟であった。
当時の中野は懲役が多く、その肩書きに反して中野本人の中野会の組織化という点において山健組内でも遅れをとっていたという。当時の山健組若頭は初代健竜会々長渡辺芳則。中野はその初代健竜会の相談役という肩書きも持っていた。
初代健竜会には中野以外にも相談役に三島敬一。副会長には桑田兼吉、太田守正。理事長に前木場信義。理事長補佐には井上邦雄。若中に山本國春、山内昭人。大阪戦争で功績をを挙げたヒットマン西住孔希などのちに大出世するメンバーが揃っていた。
その後山本健一の逝去により二代目山健組を渡辺が襲名すると中野は舎弟頭補佐に就いた。
山一抗争が終結し渡辺が五代目山口組々長に就任すると1989年6月、中野会は五代目山口組の直系組織へと昇格した。約一年後の1990年7月、五代目山口組の若頭補佐に就任する。
これに前後して中野会は数の上でも急激に膨張し、山口組内でも大きな勢力となった。
宅見勝との対立
1996年7月10日
中野が京都府八幡市の理髪店で四代目会津小鉄系組員に襲撃される。
この時ボディーガードとして中野に付いていた若頭補佐の高山博武が相手の組員二名を射殺し中野に怪我はなかった。中野が警察の事情聴取に体をとられている間に五代目山口組若頭の宅見勝は、当事者である中野太郎に協議することなく会津小鉄と和解した。中野は当事者である自分を抜きに和解した事に激しい不満を抱き、若頭の宅見と公然と対立するようになる。
この事件から約一年後
1997年7月
中野会若頭補佐で壱州会々長の吉野和利が総指揮をとって、中野会傘下組織から、宅見勝の動向を探るための偵察部隊と、襲撃するための襲撃部隊を選抜した。当初の計画では宅見を東京で襲撃する予定だった。ところが東京での行動が掴めずに断念した。
8月27日
宅見が大阪市内のホテルを訪問することがわかった。
しかし中野も同席することがわかり、襲撃を見合わせた。
1997年8月28日
中野会小政組々員として山口組総本部の当番に派遣されていた者からの連絡で宅見らの行き先を知る。中野会傘下の暗殺部隊鳥屋原精輝、中保喜代春、吉田武、川崎英樹の4人が、新神戸オリエンタルホテル4階のティーラウンジで五代目山口組若頭の宅見勝を射殺。
中野は当初無関係を主張したが、五代目山口組から破門となる。その後、事件に巻き添えとなった歯科医が死亡し、中野の処分が絶縁に変更された。
絶縁後
1998年7月6日
宅見若頭射殺事件の総指揮をとった中野会若頭補佐で壱州会々長の吉野和利が逃亡先の韓国のマンションで変死体で発見。日本の警察は他殺の可能性も視野にいれ、韓国から引き渡された吉野の遺体を調べようとしたが、内臓等はすでになく日本で鑑定する事は出来なかった。
1999年5月18日
中野会若頭補佐で金山組組長の金山義弘が、京都市内で二代目宅見組系組員に撃たれ重傷。
1999年7月1日
大阪府公安委員会から独立組織として中野会が指定暴力団に指定される。
1999年9月1日
中野会若頭で山重組々長の山下重夫が大阪市生野区の麻雀店で二代目宅見組幹部組員ら4人に射殺される。
2002年4月20日
中野会副会長で弘田組々長の弘田憲二が沖縄で車で移動中オートバイに乗った山口組直系天野組組員の山下哲生に射殺される。
2002年7月
殺された弘田憲二の葬儀に参列したとして、山口組直系益田組から絶縁された益生連合会々長の矢野康夫が組を「太竜会」に改称して、 中野会に副会長として加入するも、12月には引退して組を解散。
2003年1月
中野太郎が脳梗塞で倒れる。
2004年10月
後になって宅見若頭射殺事件に関与した疑いが強まり、指名手配されていた関係者の1人が大阪府豊中市内で逮捕された。
山口組も六代目へと代替わりし寺岡修や竹中武らの仲介により
2005年8月7日
中野会解散。
中野会解散後
2006年6月30日
元中野会系幹部で宅見襲撃犯の一人鳥屋原精輝が神戸六甲アイランドのプレハブ倉庫内で遺体で見つかる。
2013年6月5日
宅見若頭射殺事件における関係者のうち最後の逃亡者であった元中野会財津組々長財津晴敏が潜伏先の埼玉県内で逮捕される。総指揮をとった吉野和利にたいして財津晴敏は現場責任者「見届け役」を務めたとされている。
2014年3月14日
財津晴敏に無期懲役が言い渡された。
宅見若頭射殺事件後、総指揮を取った吉野和利は韓国で変死し、襲撃の実行犯4人のうち鳥屋原精輝は逃亡生活中に病院にかかれず持病を悪化させ2006年6月逃亡中に死亡。他の3人、中保喜代春、川崎英樹、吉田武は事件後に逮捕されそれぞれ懲役20年が言い渡されている。
2007年頃
中野太郎は雑誌の取材に応じている。
記者
『若い者が突っ走ってやったと・・・』
中野太郎
『まあ、建前ではそうなるやろうね』
『こんな病気(脳梗塞)になるんなら、やらんとけばよかったかなぁ・・・』
と回顧している。