六代目山口組の分裂騒動とセットで話題に上がる、現在の弘道会系による山口組内の支配構造。
これについては山口組では三代目組長の田岡一雄が死去して以降、四代目当時の竹中組、五代目当時の山健組と当代を輩出した二次団体が、山口組本家において重きをなし、発言力を増すと同時にその二次団体も勢力を増した。当然その傘下団体も勢いづき、同じ山口組内にあっても他の二次団体系列に対して遠慮のない活動が目に付いた。
現在の六代目体制の以前には、当然五代目体制があった訳で、その当時の弘道会はどのような境遇にあったのだろう。
それまで二代目山健組々長だった渡辺芳則が、山一抗争終結と同時に山口組本家の五代目組長に就任すると、山健組を桑田兼吉に譲って三代目山健組が発足した。この時渡辺はそれまで自身が率いてきた二代目山健組から多くの人物を本家直参へと引き上げた。一見すると山健組の勢力を減少させるかのようにも見えるが、実際のところ三代目山健組は元一和会の勢力も取り込み二代目山健組以上にその数を増やした。
そして五代目山口組本家では若頭に宅見組々長の宅見勝が就いた。
この時、若頭の宅見勝を補佐する若頭補佐には英五郎、倉本広文、前田和男、司忍、瀧澤孝らが就き、本家の執行部が形成された。少し遅れて桑田兼吉も若頭補佐として執行部入りし、その後山健組出身の中野太郎も執行部入りした。
この時期山健組から直参に直った組織は多数あったが、それぞれ目立って勢力を伸ばした組織はなかったが、中野太郎率いる中野会は別格で急激に膨張し、数の上でも三代目山健組と肩を並べた。中野会膨張の影には他の系列を処分された者を自陣に加えるなど、ご法度があったがそんな横暴も黙認された。
当時は中野会なら何でもありといった風潮で、他の二次団体を破門絶縁になっても中野会で復帰となれば、他の組織からクレームを出し難い空気があった。
当時の時勢として、単なる直参組長となるよりも山健組や中野会の幹部クラスでいる方が、他の系列に引く事無く何かにつけて優位に事が進められると皆が見ていたし実際にそうだった。事実山健や中野の看板の下、他の直参相手に平然とケンカを売り、開き直る者もいた。
弘道会が地盤とする名古屋においても、山健組や中野会は遠慮がなかった。当時の弘道会系列の者には、そんな関西系に煮え湯を飲まされてきた者もいるはずである。今の弘道会側から見れば自分達が過去に散々やってきた事ではないかという気持ちがある。
もともとヤクザというのは身贔屓の上に成り立つ擬制家族である。非山口組から見れば、山口組は一つの一家であるが、山口組内においては山健組と弘道会は別の一家で、また弘道会内においてもそれぞれの一家が寄り集まって形成されている。それぞれに組長という家長がいて、自分が仕える家長には上部組織の中で少しでも上へと登ってもらう事が、結果的に自分に多大な影響をもたらす。
また押し上げられた家長も、自分を押し上げる原動力となった若衆を、当然にこれまた引き上げようと考える。
高山清司と井上邦雄は、どちらも司忍が盃を下ろした若い者である。
しかし司忍が昭和59年に弘道会を旗揚げし、やがて本家の六代目にまで登り詰める原動力となったのは、高山清司をはじめとする弘道会の若衆たちである。
具体的には司忍が所属する弘田組が解散し、弘道会を発足させた時は山口組と一和会に分裂し大きな抗争となった頃だ。この抗争で弘道会は多大な戦果を上げたが、組員の服役や出費に大きな犠牲を払ってきている。ひらたく言うと司忍とは苦楽を共にして来ている。
五代目時代に弘道会が山健組や中野会の圧力にさらされている頃、井上邦雄はほとんど服役中だったが、言うなれば「向こう側」の人間だった。
山口組のトップは本家の直参から選ばれる事が当然とされ、また今後もそうなるだろう。ただその都度主流と反主流が生まれ、そこに摩擦が起きるのは必然となる。人間の持つ欲望を丸ごと肯定する弱肉強食のヤクザ社会では、主流が主流であり続ける事もまた難しい。この先弘道会が主流であり続ける保証はどこにもない。