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二代目健心会々長江口健治逮捕

六代目山口組と神戸山口組の分裂騒動後、全国の両組織への警察による捜索は連日行われているが、ここにきて初めて六代目山口組の執行部の一人が逮捕された。

容疑は電磁的公正証書原本不実記録同供用の疑いという微罪だが、容疑の中身はと言うとリフォーム会社の設立を法務局に法人登記をしたが実体がないという事らしい。特にその会社を利用して犯罪行為があったという訳ではなさそうだが、会社としての活動がないということで「虚偽の法人登記」とされたようだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151020-00000005-kobenext-soci

二代目竹中組復活の正当性

先日六代目山口組において竹中組の名跡復活が発表されたという。

二代目竹中組として、これまでの二代目柴田会々長だった安東美樹が就くことになった。
承知のように初代竹中組々長は竹中正久で、正久が四代目山口組を襲名後は弟の竹中武が率いていた。ただこの時弟の武は二代目竹中組を名乗らず、初代竹中組の副長として独自に率いていた岡山竹中組と兄の正久が率いた竹中組を統合したものとして、あえて二代目という認識を避けた。

当時二代目竹中組という名乗りを避けた理由を武は語っていないが、その時はまだ姫路事件で長期服役中だった者がおり、その者に二代目竹中組を継がせたかったのではないかという話だ。
しかしこの人物が出所した時、竹中組は山口組を離れていた。そして武は出所したこの人物を一度は竹中組の若頭に就けたが、その後破門した。

この頃竹中武はジャーナリストの取材を受け、当時山一抗争で服役中だった安東美樹の名前を上げ、安東が出所した折にはに竹中組を譲ってもよい。また安東の意志によっては竹中組を山口組に戻しても良いと発言していた。しかし安東は山一抗争でヤマヒロ邸襲撃事件を起こした後は逃亡し、その逃亡中に竹中組が山口組を離脱した事により自分の籍を竹中組から一心会に移していた。その後安東は逮捕されたが、この武の発言があった時も服役中であり当然一心会のままだった。

そして安東美樹が出所する前に竹中武は亡くなった。

安東美樹は2010年に出所して一心会に復帰し、その後直系組織の柴田会の二代目を襲名し六代目山口組の直参に直った。

そして今回安東美樹の二代目竹中組襲名によって、27年振りに竹中組の名前が山口組に戻ってきた。

竹中組が山口組を離脱した時には、五代目山口組は徹底攻撃を繰り返して竹中組の存続を認めなかった。多くの竹中組傘下団体は山口組系列へ移籍し、竹中組に残留した者には山口組により命を奪われた者もいた。六代目体制が発足した時には若頭の高山が竹中組の山口組への復帰を交渉したが、条件が合わず武に話を蹴られる格好になった。この事で若頭の高山は改めて竹中組との交際厳禁を通達した。

ここへきて竹中組の名跡復活にどれほどの意味があるのか分らない。

安東美樹は山一抗争の功労者に違いない。ヤマヒロ邸襲撃に大きな効果があった事は間違いない。しかし安東が上げた「効果」以上に「一本」をとった者もいる。当時の一和会の大物のタマ殺りに成功した者は誰もいないが、かろうじて一和会直参二人のタマ殺りには手が届いた。一和会幹事長補佐の赤坂進と一和会副本部長の中川宣治だ。赤坂進は竹中組内の杉本組で、中川宣治は同じく竹中組内の生島組だ。そして竹中組が山口組を離れた時、杉本組は宅見組へ生島組は山健組へと移籍した。他にも当時の竹中組を支えた多くの中枢組織はそれぞれ山口組系の二次団体へと分散され吸収された。

杉本組や生島組それぞれに安東のように身を投げ出した実行犯がいる。中川宣治を射殺した生島組の二人の実行犯のうち一人は山一抗争の功労者として賛美される事なく出頭前に自殺している。

山口組によって瓦解した竹中組の名を今山口組に改めるという事に意味はあるのだろうか。また安東美樹のネームバリューは確かに大きいが、彼だけが竹中組最大の功労者という訳ではない。一和会の直参二人を殺ったのは、いずれも竹中組の直参でもない末端組員らだ。

竹中組の名跡復活が、安東ら当時山一抗争で体を賭けた者達の悲願で、それに応える形での復活であれば話しは美しい。しかし山口組本家主導による名跡復活で、象徴的人物として安東美樹を擁立したのであれば、過去の経緯を振り返ると中身が伴わない気がする。本当の意味での竹中組は過去の歴史の中にしかない気がする。

弘道会が取るべきケジメと神戸山口組の覚悟

山口組の分裂騒動において連日のマスコミ報道でも新たな進展は伝わってこない。マスコミも報道するようなネタもないせいか最近落ち着いてきた。

世間の関心は分裂の原因や今後抗争へ発展するのかどうか。あるいは市民がそれに巻き込まれる事はないのかといった事で、それについてのコメンテーターの発言も根本的な所に触れるような発言はなかった。

もちろん時間の制約があるテレビなどで、今回の騒動を分りやすく伝える事はほぼ不可能だろう。そのため「金と人事への不満」などと大雑把にまとめられてしまう。

さて今回の騒動、六代目山口組の方には大きな動きはない。特に末端の方ではあまり危機感を持っていないようだ。もっと言うと当事者意識が薄いように思う。
山一抗争のように歴史的に見ても、出て行った方が分が悪く、局所的に衝突が起こっても時間が経てば本流である六代目山口組が残るものだと楽観視しているように見える。

具体的な意見として、司組長から高山若頭の弘道会ラインのやり方に反発して、このような事態になったのだから、原因があるとすれば弘道会という事になる。だから脱退していった者達には弘道会が率先してケジメを付けるべきだという見方がある。今回の件にきっちりケジメを付けられないようでは、絶縁状を出したメンツが潰れてしまう。また神戸山口組をそのままにしておくような事では、今後も離脱者が増え大阪山口組など亜流を興す事になるかもしれない。

自分が気になるのは、六代目山口組に残っている二次団体以下の傘下団体は強い意志を持って残っているかどうかという点だ。今の六代目山口組の中心団体である弘道会を本心から支持し、反旗を翻した神戸山口組を殲滅すべく、自ら陣頭指揮を執ろうとする者がいるのだろうか。
六代目山口組を出るという具体的行動を起こさなくとも、現在の弘道会が主導する体制に不満を抱える者は現実に多数いる。今までの流れの中に身を置いているに過ぎず、明確な意思を持って六代目体制に残っているとは言えないのではないだろうか。
これに対して神戸山口組に集結した団体は、強烈な意志を持って集ったに違いない。山一抗争の経験則を持ち出すまでもなく、自らの生命を賭す覚悟がなければこういう事は出来るはずがないのだ。
神戸山口組にしても六代目山口組と全面抗争するようなことは望んでいないだろう。しかし希望的観測でいるはずがない。あらゆる展開を覚悟した上での事だと思う。
そういう面では神戸山口組が持つ自覚と緊張感は、六代目山口組を大きく上回っているように感じる。単純に山一抗争を引き合いに出し、今の神戸山口組と当時の一和会を同一視することは出来ない。

一和会と分裂し山一抗争を起こした当時の四代目山口組は竹中正久を強烈に支持する者達だった。多くの古参が一和会へと流れた事で、四代目山口組執行部には多くの若手が起用され活気があった。竹中が暗殺された後、どこがヤマヒロを仕留めるのかというそれぞれの競争心が組内の活気に拍車をかけた。

過去の山口組と一和会の分裂と今回の事は、もちろん共通点も多くあるが根本的な性質が異なる。過去の歴史と照らし合わせるだけではこの先の展開は見えてこない。

司忍組長の手紙

先日の定例会で司組長からの通達が手紙として直参組長全員に配られたとマスコミが伝えている。

この手紙や内容については本物か偽物なのか、今後も分らないだろう。仮に本物だとしても、まさか外部に漏れる事がないと安易に考えて配られた訳ではない。もし本物だとしても、もちろん文字にして配る以上は外部に漏れる事も想定して配られたはずだ。だから内部文書といっても、外部に漏れてまずい事は何も書かれていない。文面についてもやはり天下の山口組の組長だけあって、この局面にも落ち着いた慎重な内容となっている。本物だと仮定すればの話だが・・・。

ここに全文を上げる事はしないが、読んだところで大企業の社訓のように抽象的で理念的な内容となっていて、警察やマスコミまたは一般人が期待する刺激的な部分はまるでない。具体的に何ら指示は出されておらず、文字通りに普通に読めばつまらない内容とも言える。

ただし、メッセージを出した者もまたそれを受け取った者も極道だ。しかもこの非常事態である。受け取った者で普通に文字だけを読む者はいないだろう。

話は少しだけそれるが、過去山口組では本家から抗争開始を通達した事はないが、抗争の中断を通達した事はある。山波抗争時に大阪の住之江区で一般人が誤認され射殺された事があった。この時の抗争中止命令は本家通達にも関わらず、通達後も何度か音が鳴りその度に再々通達が重ねられた。
つまりこれは攻撃してはいけない場合、はっきりと通達が出ると解釈できる。
またこの時は、本家からの命令として抗争の一時中止を通達したのだが、その後再開にあたっては通達を出す事によって教唆に当たるのではないかと当然の理屈になり、改めて抗争再開を通達される事はなかった。

ヤクザは組織としてはおろか個人としても抗争に限らず、教唆や共同正犯などには常に細心の注意を払っているのが普通だ。殺ってこい行ってこいと命令するケースの方が極めて珍しい。それとは逆にやってはいけない事については厳格に禁止している。山口組でも内部抗争厳禁は明確に通達されている。

仮に組織のため組のメンツのためと、個人の意志を離れてヤクザとしての行動を起こす者は、上からの指示などまず受けない。組長や上位者の意を汲みとって自発的に行動を起こす。

今回の手紙については、直参以外の下部団体の者でもその真贋を最終判断できる者はいないだろう。かといって今の状況下において手紙の内容を甘く読み取る者もいないだろう。文面から読み取れるのは、新団体を認めるとも認めないとも書いていないが、六代目組長が離脱者に対し明らかに不快感を持っている事だ。軽挙妄動を慎めという言葉はあるが、肝心な事には当然触れていない。はっきりと書いてあるのは、男としての神髄を究めることを希望する。前向きに歩むことを望む。という言葉だ。どう読み取るかは読んだ者が決めればいい。ただしこれらの言葉をヤクザ的に捉えると、何やら危険な空気になってくる。

弘道会支配の原点にあるもの

六代目山口組の分裂騒動とセットで話題に上がる、現在の弘道会系による山口組内の支配構造。

これについては山口組では三代目組長の田岡一雄が死去して以降、四代目当時の竹中組、五代目当時の山健組と当代を輩出した二次団体が、山口組本家において重きをなし、発言力を増すと同時にその二次団体も勢力を増した。当然その傘下団体も勢いづき、同じ山口組内にあっても他の二次団体系列に対して遠慮のない活動が目に付いた。

現在の六代目体制の以前には、当然五代目体制があった訳で、その当時の弘道会はどのような境遇にあったのだろう。

それまで二代目山健組々長だった渡辺芳則が、山一抗争終結と同時に山口組本家の五代目組長に就任すると、山健組を桑田兼吉に譲って三代目山健組が発足した。この時渡辺はそれまで自身が率いてきた二代目山健組から多くの人物を本家直参へと引き上げた。一見すると山健組の勢力を減少させるかのようにも見えるが、実際のところ三代目山健組は元一和会の勢力も取り込み二代目山健組以上にその数を増やした。

そして五代目山口組本家では若頭に宅見組々長の宅見勝が就いた。
この時、若頭の宅見勝を補佐する若頭補佐には英五郎、倉本広文、前田和男、司忍、瀧澤孝らが就き、本家の執行部が形成された。少し遅れて桑田兼吉も若頭補佐として執行部入りし、その後山健組出身の中野太郎も執行部入りした。

この時期山健組から直参に直った組織は多数あったが、それぞれ目立って勢力を伸ばした組織はなかったが、中野太郎率いる中野会は別格で急激に膨張し、数の上でも三代目山健組と肩を並べた。中野会膨張の影には他の系列を処分された者を自陣に加えるなど、ご法度があったがそんな横暴も黙認された。

当時は中野会なら何でもありといった風潮で、他の二次団体を破門絶縁になっても中野会で復帰となれば、他の組織からクレームを出し難い空気があった。

当時の時勢として、単なる直参組長となるよりも山健組や中野会の幹部クラスでいる方が、他の系列に引く事無く何かにつけて優位に事が進められると皆が見ていたし実際にそうだった。事実山健や中野の看板の下、他の直参相手に平然とケンカを売り、開き直る者もいた。

弘道会が地盤とする名古屋においても、山健組や中野会は遠慮がなかった。当時の弘道会系列の者には、そんな関西系に煮え湯を飲まされてきた者もいるはずである。今の弘道会側から見れば自分達が過去に散々やってきた事ではないかという気持ちがある。

もともとヤクザというのは身贔屓の上に成り立つ擬制家族である。非山口組から見れば、山口組は一つの一家であるが、山口組内においては山健組と弘道会は別の一家で、また弘道会内においてもそれぞれの一家が寄り集まって形成されている。それぞれに組長という家長がいて、自分が仕える家長には上部組織の中で少しでも上へと登ってもらう事が、結果的に自分に多大な影響をもたらす。
また押し上げられた家長も、自分を押し上げる原動力となった若衆を、当然にこれまた引き上げようと考える。

高山清司と井上邦雄は、どちらも司忍が盃を下ろした若い者である。
しかし司忍が昭和59年に弘道会を旗揚げし、やがて本家の六代目にまで登り詰める原動力となったのは、高山清司をはじめとする弘道会の若衆たちである。
具体的には司忍が所属する弘田組が解散し、弘道会を発足させた時は山口組と一和会に分裂し大きな抗争となった頃だ。この抗争で弘道会は多大な戦果を上げたが、組員の服役や出費に大きな犠牲を払ってきている。ひらたく言うと司忍とは苦楽を共にして来ている。

五代目時代に弘道会が山健組や中野会の圧力にさらされている頃、井上邦雄はほとんど服役中だったが、言うなれば「向こう側」の人間だった。

山口組のトップは本家の直参から選ばれる事が当然とされ、また今後もそうなるだろう。ただその都度主流と反主流が生まれ、そこに摩擦が起きるのは必然となる。人間の持つ欲望を丸ごと肯定する弱肉強食のヤクザ社会では、主流が主流であり続ける事もまた難しい。この先弘道会が主流であり続ける保証はどこにもない。

 

絶縁 破門 処分についての世間の誤解

この度の山口組本家からの処分は、まずは直参13人という事になっている。
この数については、2008年の時と同じように間を置いて処分が出る可能性がある。

当初は四代目山健組の井上邦雄組長と行動を共にするだろうと見られながら、土壇場で脱退を踏みとどまった直参もいる。今はいいがこういう者については、山口組内でも冷ややかな目で見られて距離を置かれ、時間を掛けて居場所をなくしていく可能性が十分にある。

今回脱退しなかった直参は、もともと井上組長や四代目山健組に関係が近く、山口組内でも山健派と見られていたが、それも井上組長と山健組が山口組にあってこそという事で、井上組長が山健組を率いて山口組を出るとなったら話は別という事なのだろう。このあたりの感情が実に微妙で、気持ちは井上組長個人に同調しつつも、自分が連れている若衆の事を考え、六代目山口組に残る道を選んだのかもしれない。

さて今回の処分を整理してみると以下のようになっている。

絶縁
入江禎 二代目宅見組 大阪市
井上邦雄 四代目山健組 神戸市
寺岡修 侠友会 淡路市
正木年男 正木組 福井県
池田孝志 池田組 岡山県

破門
毛利善長 毛利組 大阪府吹田市
岡本久男 二代目松下組 神戸市
剣柾和 二代目黒誠会 大阪市
奥浦清司 奥浦組 東大阪市
高橋久雄 雄成会 京都市
宮下和美 二代目西脇組 神戸市
清崎達也 大志会 熊本市
池田幸治 四代目真鍋組 尼崎市

ネットなどで処分の差についての意味が解説されていて、絶縁は永久追放で復帰の可能性はなく、破門は将来的に復帰の可能性があるという説明がされている。これらは間違ってはいないが、今回のケースに関しては当てはまらない。

絶縁については問答無用の永久追放で、その後のヤクザ活動はおろか絶縁者と交友した者についても許されず、絶縁者と交友する者については処分を出した組への敵対行為とも見なされ、ヤクザ社会における最も重い処分である。この処分には関西所払いというふうに地域からの追放も付け加えられる事が多い。

そして破門は一番適用の幅が広く、混同も多いのではないだろうか。
絶縁に近い意味を持つ破門と、一時的に破門にしておくという復帰前提の破門があるが、その中身の意味合いについては当事者が理解していれば事足りる。
今回の分裂騒動についての破門は、もちろん復帰前提というような甘い意味は一切ない。過去に山口組本家を破門になった直参がその後破門を解かれ復帰したという前例は今のところない。

13人の処分について差があるのは、脱退を主導的な立場で扇動したと判断されたり、本来は六代目山口組の中でも責任の重い立場にあるはずの者という人物については絶縁処分が出され、それらの者を支持し追随したと見られた者は破門となったような感じがある。

ではなぜ破門は復帰の可能性があると一括りに言われるのだろうか。
山口組でも二次団体三次団体と傘下組織へと下ると、処分の使い方が緩やかで他団体との摩擦や揉め事を避ける意味でも潤滑油の役目を果たす事がある。
敵対関係にない組織を相手に若い者が揉め事を起こす。少々こちらにやり過ぎ感があったりする場合。例えば飲み屋で他団体の幹部とばったり出くわし、絡んできた酒癖の悪い相手組織の幹部を痛め付けてしまった。こういう場合相手の貫目も考慮され、相手の顔を立てる意味でも一時的に殴ってしまった若い者を破門にしたりする事がある。そして頃合を見て中立的でそれなりの実力者が、相手側に掛け合い破門者の復帰を打診する。打診された側もその仲介者の顔を立て水に流す。こうして順番に顔を立てあう事で、ヤクザ社会の均衡が保たれている面がある。

しかし一時的であれ、破門される当事者としては自分の経歴に汚点を残すようで不満もある。そういう場合親分の意を汲んだ当事者に近しい兄貴分などが因果を含めて諭す。
「なぁAよ。ちょと間の事やから辛抱しとけやぁ」
「辛抱て何でんねん、ワシ破門でっか?」
「ちょっとの間ぁだけや」
「なんでワシ破門にならなあきまへんねん。ケンか売ってきたんは向こうの方でんがな。わしヤクザしてまんねん。売られたケンカは買いまんがな」
「そらそうや、アレはちょっと酒癖も悪いしょうもないやっちゃ。せやけどあんなんでも一応○○会のカシラ補佐や。今回の件でウチにも性根のあるヤツがおるっちゅう事、向こうもよう分ったやろ」
「それなら生きて帰らせたんがワシの下手打ちや。情け掛けたんが間違うとった。今から行ってキッチリ殺ってきますわ」
「アホな事言うな、あの程度の男殺ってもうたら、オマエの値打ちが下がるやないか。今××のオジキが向こうのカシラと会うてええ話にしてくれとる。オジキもお前が間違うた事してへんのはよう分ってくれとる。オヤジも口には出されへんけど腹ではようやった思うとる。あとはお前の腹や」
「そうでっか自分のした事で迷惑掛けてるんならワシ指詰めますわ」
「そこまでせんでもええんや。もともとケンカ売ってきたんは向こうなんや。お前はそれを買うただけや。何も間違うた事してへん。とりあえずちょっと間旅行にでも行ってゆっくりしてこいや。連絡だけは取れるようにしとけよ」

こういうケースは相手に対して顔を立てる便宜上の処分であって、組内においては何ら処分的な意味合いはない。もちろんトラブルに対しては内容が考慮される。他団体の人間の金銭を持ち逃げしたりなど、その後組に置いてもロクな事がないと判断されれば、本人が望んでも復帰させる事はない。しかしヤクザは個人の持つ戦闘性や闘争心には寛容な部分があり、またそういう人物を手離すのは惜しいという本音もある。

とはいえ行きがかり上のケンカや突発的な争い事は程度によって建前的な処分では済まない事もあり、相手が命を落としてしまったりした場合には当事者の親分や上部団体にも処分が及ぶ。三次団体組員の不始末であれば、当事者の所属する三次団体組長が破門で二次団体組長が謹慎というようなケースになる。

 

分裂までに何があったのか

今回一部の直参組長が離脱脱退するまでに何があったのだろうか。

マスコミが色々と書き立てているが、なかなか誰も的を得た原因を指し示すのは困難に思える。原因は複雑に絡み合いそう単純ではない。六代目体制が発足して以降常にその予兆はあったし、爆発寸前の状況でよくここまで持ち堪えてきたものだ。特に2008年の大量処分時には不穏な空気感があった。この時何も起こらず「音ナシ」で収束したのには後藤組々長・後藤忠政の大人の所作が最終的にあったからだと思う。当時後藤忠政の処遇について本家で問題が持ち上がってから、後藤氏が処分を受け入れる覚悟を決めるまでに相当な葛藤があっただろう事は、その後出版された「憚りながら」の行間に読み取る事が出来る。つまり後藤問題を穏便に収めたのは執行部ではなく、後藤氏本人によるところが大きいと思う。そして最後に名古屋に出向き、高山若頭を立てるところなど、さすが大親分と呼ばれた後藤氏の潔さと器の大きさを感じる。

後藤氏の除籍直後に起こった同年から翌年にかけての直参大量処分も、この時の後藤組問題と決して無関係ではない。
騒動を乗り切ったその後の山口組には何が残ったのだろう。我が強く注目されがちな個性を持つ直参は、この頃おおかた山口組から追放した。組を出されなくても執行部から外されるなど窓際へと追いやった。

当然巨大組織を預かる執行部ともなれば、それなりの統制を取っていかなければたちまち組織は立ち行かなくなる。そうそう甘い顔も出来ないだろう。しかし本家では正論や筋論よりも、執行部の論理すなわち高山若頭の論理が押し通されてきた。

ただこの十年、そういう本家の高山若頭や執行部あるいは弘道会に対して、大阪では末端の組員でさえ公然とそのやり方を批判していた。2008年の後藤組問題と直参に対する大量処分にしても、やり過ぎの横暴だと言う受け止め方がほとんどで、本家の高山若頭に対しては、情のない冷酷な人物というイメージを皆が持つようになった。また執行部入りする人物にしても、高山若頭に従順な者らが順次引き上げられていったに過ぎないという見方をしている。反抗的な人物や執行部を批判する者には、常に粛清が行われてきて、追放されずとも冷遇され微妙な立場にある者や、それらの者が率いる二次団体の構成員にとって、不満がいつ爆発してもおかしくない空気が渦巻いてきた。こうした状況では宅見若頭暗殺事件のような事が、いつ起ってもおかしくないという意見もあった。

つまり、現体制に対して何か一波乱いつ起こっても何らおかしくないという見方だ。

大地震が起こると警告する学者がいる。
いつ起きてもおかしくない条件は揃っている。しかしいつ起きるかは分らない。明日かもしれないし来年か再来年かもしれない。ずっと起こらないかもしれない。しかしそのエネルギーは放出されず溜まっていく。反乱は大地震予測とよく似ている。小さな反発が度々起こるよりも、表面上静かな時間が長ければ長いほどそのエネルギーは大きいのかもしれない。

分裂騒動と下部団体の動揺

日本最大の構成員数を抱える山口組には膨大な構成員がいる。
しかしその中でも司忍組長から直盃を受けた直参と呼ばれる者は極僅かしかいない。この度脱退した直参は規模に差はあるが、それぞれ自ら二次団体を率いる一家の長だ。それら二次団体の構成員にとって今回の件は、寝耳に水のように感じている者もいれば、来る時が来たかと腹を決める者、上手く勝ち馬に乗ろうとする者色々あると思う。

これまでの本家における高山政権と言われる弘道会中心の体制について、山口組内に多くの不満が溜まっている事は、承知の事実ではあるが、山口組本流といわれる山健組が実際に割って出るということは考えにくかった。

過去に山口組は、四代目発足時に一和会と勢力を二分し大きな抗争を経験しているが、当時を冷静に振り返ると一和会には全国的に名を馳せた古参を中心とした有名組長が揃い、数の上でも一和会が優勢だと見られていた。一和会とて当初は抗争は望まず、自分達こそが三代目田岡の遺志を守っていく正当な団体だと主張した。またいざ抗争となれば四代目山口組と十分に渡り合えると考えていた。

その、当初優勢とされた一和会でさえ、山一抗争で四代目山口組の組長と若頭のタマ殺りに成功しながらも山口組によって壊滅された。

今回山口組を脱退した二次団体の構成員や末端の者らの中には、山口組を出てやっていけるのかと不安に思う者も多くいるという。

山健組においても山口組にあってこその山健組であり、山口組を離れては将来的に存続自体危ういのではと末端組員らが考えるのもまた当然の考えだ。

四代目山健組内において脱退は、その構成員全体の一致した総意ではない。山健組が山口組を離脱するなら個人的に山健組を離れ、山口組の系列組織に移籍したいと考える者もいる。

もう一つの考えとして、今のヤクザ社会に嫌気が差していたので堅気になるちょうどいい機会だと、ヤクザに見切りを付けようとする者もいる。末端といえど個人それぞれに複雑な人間関係がある。三次団体でも四次団体でも若い者がいれば、その者達の将来を考えてやるのも上に立つ者の責任だ。そう簡単に判断できない部分もある。

抗争にならないはずがない

近代ヤクザの特徴として年を追うごとにヤクザは抗争を避けてきたのか。

暴対法や暴排条例の効果なのかどうなのか、実際に大きな抗争は減ってきた。これについては当局による取締りとは別に、上部団体が下部団体の紛争を積極的にコントロールしてきたという側面がある。これは関西よりも関東の組織の方がずっと以前からその傾向にあったが、近年においては関東系組織に習い山口組をはじめとする関西の組織も東京的な組織運営を進めてきた。

ただ今回の分裂騒動については、少々事情が異なる。

今回は山口組から絶縁という処分が出されている。
過去を振り返ってみると、三代目山口組当時に絶縁になった菅谷組は、菅谷政雄組長の意地から解散引退を拒否し、何とか存続の道を探ったが山口組から徹底的な攻撃を受け、遂には組の存続は叶わなかった。

山口組に限らず絶縁者の現役続行は、まずもって認めないのが通例である。

四代目の跡目問題で山口組と一和会とに分かれた際には、「義絶状」が山口組から出された。これは四代目山口組と盃関係がないため「絶縁状」とならなかったが、文面内容は絶縁状そのものだった。お互いに別の道を歩きましょうと円満分裂にはならなかった。

また五代目発足時に盃を受けず、山口組を離れた竹中組や二代目牛尾組に対しては、単に脱退の通知が出されただけだったが、脱退した組織に対して執拗に攻撃がなされた。このときの攻撃は三代目山健組や宅見組などが目立ったが、承知のように渡辺芳則五代目組長の出身団体と新若頭の宅見勝が率いる組織だ。

同じく五代目時代には、本家の若頭宅見勝射殺事件が起こり、実行犯が所属していた中野会が絶縁になった。中野会々長・中野太郎は五代目組長・渡辺芳則と特別に関係が深く、本家からも中野会への報復を控えるように通達が各団体に出された。しかし組長を殺られた二代目宅見組や宅見組から直参に直った天野組の報復心は非常に強く、その後中野会の副会長・弘田憲二や若頭・山下重夫などを射殺した。しかしこの報復について、山口組本家からの通達に背いたという処分はない。

以上の事からも分るように山口組は、処分者に対してかなり毅然とした態度を取る。もう少し言うと処分者のその後のヤクザ活動に対しては容赦しない。2008年に直参の大量処分があったが、その時処分された者は皆ヤクザを辞めている。しかし今回は処分を受けた者らで新しい団体を旗揚げするとなれば、放置される事はまずないと思う。

現在山口組の本家の若頭である高山清司は服役中である。その高山に代わって本家を取り仕切っている責任者は統括委員長の橋本弘文だ。今回の騒動の原因に個人的関係があるかどうかに関わらず、立場上責任がある。カシラの留守を預かる者として、当然脱退していった組織の存続を認められる立場にない。当代の司組長から盃を受けた者らが、その盃を突き返すがごとく離脱したうえ、更に新団体を立ち上げるという事は、司組長の顔に泥を塗る行為に等しい。ましてカシラの高山が社会復帰した時に新団体が存在していては合わせる顔がない。また今のこの混乱にどう始末をつけるのかと、橋本統括委員長の所作を組の内外のヤクザが見ている。橋本率いる極心連合会内においても置かれた状況は連鎖する。我が親分の苦悩を放置できる状況にはない。弘道会内においても同じようなものだろう。

大阪戦争が長引いていた頃、組長の田岡は若頭の山本健一に「ケン、お前どないするつもりや?」と問いかけたという。このやり取りには相当に深い意味がある。ヤクザでもサラリーマンでも出来る人物ほど短い言葉からも敏感に意を汲んで、自分の責任において行動する。下手な質問はしない。教唆させない。

抗争へ向けて上部団体から指示など絶対に出ない。

どのような状態をもって抗争状態というのか当事者やマスコミ、当局それぞれ線引きが違うかも知れないが、今後これから音なしという訳にはいかないだろう。ようはどこまでエスカレートするのだろうかと言う事だ。

 

分裂騒動から抗争への可能性について

今回一部の団体が脱退離脱したことについて、分裂という言葉が当てはまるかどうかさて置き、今後は全面抗争へ発展する懸念がある。社会情勢や損得勘定に照らして考えてみれば確かに何の得もない。しかし世の中に起こる事件や人間の行動について、すべて理性的な損得の物差しで計る事が出来ないのも事実だ。

これまで山口組は内部抗争厳禁とされ、表面上大きな揉め事はなかったようにされているが、山口組ほど同じ代紋同士で争い続けている組織も他にないのではないだろうか。
特に大阪について言えば、二次団体同士が全面的にぶつかり合う事はないが、三次団体同士や末端同士のイザコザは絶える事がなかった。例えば二代目宅見組系の三次団体と極心連合会系の三次団体では、同じ山口組としての身内意識ははっきり言って・・・ない。
逆に一部の人間が個人同士で親交を結び親しくしている事は実際ある。少年院時代からの仲間であったり、過去に同じ暴走族に所属していたりというように。今ではお互い違う親分から盃をもらっているが、所属する組の者以上に親しい他団体の者がいるというケースも珍しくない。

しかし一般的に上部団体が異なる三次団体同士であれば、同じ山口組といえどもほぼよその組織である。何かでバッティングし話し合いがこじれ感情むき出しの状況に突入すれば、当然トラブルがケンカに発展する。
これまでも○○組の者らが××会の事務所に押しかけて・・・という話は大阪のどこにでもある。当事者も心得たもので、内部抗争厳禁の近年のケンカはやった者勝ちの早い者勝ちである。つまり上部団体に事態を察知されストップがかかるまでが勝負で、ケンカ沙汰は素早く仕掛けたり、やられたら素早く返しに動かなければチャンスを逃しヤクザとして自分達の面子に関わると考えている。死者も出ずマスコミにも出ない下部団体同士の衝突は、これまでいくらでもあった。ただこれらが今まで大きな内部抗争に発展しなかったのは、山口組という同じ代紋の元に統制されてきた効果でもある。

ヤクザ社会の営みとして揉め事は必ず起こる。しかしこれらを上部団体が素早く処理してきた。身内でトラブルを起こさないようにというのが本家からの方針ではあるが、現場の実務としては、起こるものは仕方ないにせよ素早く終わらせるという統制もあった。

今回の離脱団体らに対しては山口組から「処分」が出される。
これは30年前の一和会の時と非常によく似ている。当時もそれぞれの組織の執行部が分裂を理由に全面抗争を指揮した形跡はない。最初に山口組と一和会の間で事件が表沙汰になったのは、和歌山県串本町での殺人だが、これは個人的な金銭がらみだった。その後地方の系列同士の衝突が頻発しエスカレートしていった果てに、山口組の四代目組長竹中正久というトップの暗殺に至った。

つまり上部団体同士に交流がなければ、行くところまで行く可能性を秘めている。逆に何らかの交流があれば、たとえ末端の組員が命を奪い合っても、代紋違いでも大きな抗争には発展しない。実際山口組と稲川会の間で全面衝突はしない。

しかし今回のケースでは末端同士の衝突が簡単にエスカレートする条件が揃っているように思う。現実問題として末端同士の衝突が避けられない以上、大きな事件に発展する事も避けられないだろう。
ヤクザ個人の思考もそれぞれで、出来るだけ抗争を避け効率のいい収益の確保に精を出す者もいるが、組や自分の面子のためあっさりと自分を投げ打つ者もいる。行きがかり上反射的に引き金を引く者もいる。一般社会の合理的価値観だけで今後を予想する事は出来ない。

当事者らも抗争は望んではいないと思う。しかし相当な覚悟で脱退したはずだ。理性的に損得勘定や身の安全を考えれば、脱退せずに山口組に残留していたはずだ。そう考えると脱退自体がなかったはずである。